最近投書したり綴った事と若干似てたような気がして。
私はね、自殺が過った人への質問に
「話を聞いてくれる人はいましたか?」という項目を
加えたら良いと思ってます。
日本には如何に「見てみぬふり」が実際には多いかが
露になると思う。
しかも現代は
この悪い意味での「見てみぬふり」のほうが多い。
良い意味であるフリをした、悪い意味での
「見てみぬふり」が。
いつのまにか日本は、
放っておいてほしい時には、
傍にいる事で得られる利益欲しさに
べたべたと執拗にもつきまとい、
本当に困っている時には、
遠巻きに見てみぬふりをしてスルーし誰も助けないようなスタイルが
多くの人の間でほぼスタンダードともなっており、
そのように転換したのは、
前の大戦の頃なのか、高度成長期か、バブルか、その後の不況、その長期化なのかと、
体験を募りたい気持ちでいる。
2021.11.9筆
その②
私は幼少から両親の仲が悪く、そのぶん母は兄を溺愛し、私は衛生面・食事面でのネグレクトとモラハラを年中毎日受けていた子供で、加えて身体的成長につれ父から陰湿な風呂覗きやストーキングや暴力も受ける様にもなり、家に居場所はなかったです。
だから、仕方なく学校へは行ってました(つまり今日の先生の主張とは真逆)。
いじめにも何度も遭いましたが、家よりマシと思ってました(所詮他人なので心理的ダメージとしてはマシ)。
ですので「何処にも居場所がなくひきこもりに」という話には、いつも違和感を感じます。
私の知る限り、本当に困っている子は皆、
ひきこもりする家すらがなく、いじめ等受けても学校へは行かざるを得なかった。
私の友人達もそうでしたし、大人になってから偶々職場の公共施設で夜分に寝ていたので心配し声をかけた女児もそうでした。
私も幼少、近くの図書館や寺院教会等に身を潜め置き心身休ませていたので、女児の状況がすぐ理解できましたが、その時は周囲の大人は皆「気付いてて知らん顔」の非協力で、とても憤慨しました(実はこの状況多い)。
この手の子供達について、教師達は昔から全く気付かず未だケアされていないと感じてます。
私の経験では、幼少は普通に親に愛され認めて貰えていた人が、成長につれ親にガミガミ言われたり社会(学校)で認めて貰えなくなる中で「居場所がない」や「自殺」を"口にする"場合が多く、そうした「実は居場所は辛うじてある」人が「以前と比較した喪失感」からひきこもりになる感はあります。
最初から「無い」人は喪失感すらなく「生来の常の絶望」にいるが、そうした苦悶の経験が「活きる」体験を重ねると自殺を徐々に考えなくなる。
なのでどちらの場合も、
逆に彼らに友人高齢者障害者犬猫等「他者を助ける」経験を回数与える事が、視点を変え、知恵だと気付かせる事ができ、無理なく「生」へ導けるのでは?とも思います