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【おすすめ散策コース】関東大震災から101年・・浅草橋・両国・蔵前界隈を歩く(後編)横網公園から蔵前を目指す

2023年9月1日に関東地方を襲った関東大震災から101年が経過しました。東京の都心は、猛火に包まれ、下町を中心に壊滅的な被害を生じた災害から復興したこの東京。それを散策しながら知るコースを考えました。前半は、浅草橋駅からスタートし、両国橋を渡り、回向院を訪ね、両国駅に向かうところまでご紹介しました。(前回の記事はこちら)

今回は、前回お伝えした、両国駅までの道のりの続きをご紹介します。

■今回のコース(歩行距離:約4km)

浅草橋→両国→蔵前→浅草橋というコース。
今回は両国駅からの続きをお伝えします。

■⑬総武快速線、ここを走る

両国駅の駅舎の横にある歩道。
国技館と駅の敷地の間を通る道ですが、ここが、総武快速線の直上なのです。
歩道脇には、「トンネル内連結送水管放水可能範囲図」が。
長大トンネルの安全を守る施設がここにあります。
そして、この生垣の後ろの躯体こそが、総武快速線のトンネル坑口にあたります。

総武快速線の東京トンネルの坑口。長大トンネルの入口は、人知れず口を開けているのです。

■⑭江戸東京博物館と、両国ポンプ所

江戸東京博物館は、現在改装工事中で閉鎖中。
そのすぐ隣に建つのが、東京都下水道局 両国ポンプ所。

施設の説明書きに記載がありますが、実は江戸東京博物館の敷地の地下も、両国ポンプ所の貯留施設の一部となっています。江戸東京博物館の前庭の広い部分などは、この地域の浸水被害を防ぐインフラ施設が占めているのですね。

■⑮旧安田庭園

旧安田庭園は、江戸時代の武家の屋敷跡にあった庭園を
安田善次郎が買い取って整備した庭園がルーツです。

旧安田庭園は、その後東京都に寄付され、今では墨田区が管理する施設となっていて、無料で楽しむことができます。

都会のオアシスのような、池を持った庭園。
この池は、元々隅田川の水を取り入れ、潮の干満のバリエーションを楽しむことが
できる庭園です。今では人工的に干満をポンプで再現する形になっています。

■⑯安田学園と同愛記念病院

旧安田庭園の北側の敷地も、関東大震災当時は、安田財閥を率いる安田善次郎(みずほ銀行、損保ジャパンなどの創始者)の邸宅があった場所でした。安田善次郎が亡くなった1921年以降、安田が所有していた土地はいろんな場所で寄付されます。東京大学の安田記念講堂もその一つ。旧安田庭園と、その隣接する敷地も、関東大震災が発生した前後に寄付されました。

旧安田庭園の北側に建つ、安田学園。
震災の翌年の1924年に、この地にやって来ました。
その隣に建つ、同愛記念病院。

同愛記念病院も、震災に関連する施設。関東大震災が発生した際に、世界各国から多くの義援金が集まりました。この病院は、その中でも米国赤十字社が中心となって集めた義捐金等を原資に設立された病院で、被災地に近いこの地に作られました。

■⑰東京都慰霊堂

東京都慰霊堂は、関東大震災で亡くなった多くのご遺体を祀る施設として建設されました。当初は「震災記念堂」として整備されましたが、その後太平洋戦争の空襲を受け、再び被災。戦後には空襲等で亡くなった方のご遺体も祀る、「東京都慰霊堂」として改めて整備され、今に至っています。

昭和5年に建てられた建物。空襲でも焼失しませんでした。
伊藤忠太氏による設計のこの建物。
不思議な妖怪のような生物が建物のいろんな場所にいます。

堂内は、礼拝堂と後ろに納骨されているエリアがあります。礼拝堂の中には、震災や戦災の被害の様子や悲惨さを示す絵も展示されています。こちらの慰霊堂と隣の復興記念館については、過去のこちらの記事に詳しく掲載しています。

■⑱復興記念館

そして、東京都慰霊堂と同じ横網公園の敷地内にあるのが・・、

復興記念館。こちらも伊東忠太さんの設計。
やはり妖怪のような生き物がいますね。
館内では、帝都復興事業を説明する当時の資料がたくさん。

道路、橋、区画整理などは有名ですが、運河や中央卸売市場、病院まであったとはちょっと驚きです。本当に近代東京の総合開発事業と言っても良いでしょう。

国営・市営・府営事業の規模と金額の多寡・財源を現した図。
今でも色あせない、うまいビジュアル化。
そして、これらの資料を、「震災復興展覧会」で披露していたそうです。
その目玉展示のひとつだった、帝都復興事業関係の模型類。
こちらも今見ても全く古さを感じません。
都心の街路計画。地下埋設物まで丁寧に描かれています。
こちらは、浅草付近の隅田川。東武線の橋はまだ描かれていません。
江東地域の運河の姿。こちらは地盤沈下が進み、
都市構造も変わり、風景は大きく変わりました。
架け替え前の両国橋の橋名板。被災した状況を展示されています。

記念館だけでなく、横網公園の中にも見どころはたくさんあります。

そして、館外には、火災で壊れた金属類の展示が。
火災のすさまじさを伝えています。
こちらは、震災遺児の記念碑。
こちらは、朝鮮人の亡くなった方の慰霊碑。

■⑲蔵前橋

復興記念館から、少し西側に歩くと、隅田川を渡る蔵前橋に到着します。

蔵前橋。こちらも復興橋梁のひとつ。
側径間の道路との交差部もなかなか素敵。
蔵前橋の親柱。

■⑳蔵前ポンプ所と、旧蔵前国技館

蔵前橋を渡ったところにある、下水道局の事務所。そこの場所に、かつて蔵前国技館がありました。大相撲は、戦前までは回向院の横の国技館で開催されていましたが、戦後米軍に接収され、その際にこの地に国技館が開設されました。その後国鉄改革で両国駅北側の貨物駅が更地になり、そこに今の国技館が建設されました。

こちらのビルが、下水道局の事務所で、ポンプ所があります。
ここが国技館なのですね。

■㉑榊神社

いよいよ街歩きコースもクライマックス。浅草橋駅に戻ろうと思いますが、その前に、ちょっとだけ神社に寄り道。

榊神社の鳥居。そのすぐそばにあるのが・・、
蔵前工業学園之蹟、

蔵前工業学園とは、工学系の高等教育機関で、関東大震災前までは、この地に広い敷地を構えていました。今の東京科学大学(つい先日、東京工業大学から改称しましたね)の発祥の地です。旧東工大の同窓会組織が、「蔵前工業会」という名前なのは、この石碑に由来するといっても良いでしょう。

実は、関東大震災の際に多くの方が犠牲になった、今の東京都慰霊堂のある旧陸軍被服廠跡の火災旋風が発生した火災の火種の一つは、この学校から隅田川を飛び越えて延焼したとも言われています。隅田川を越える火災って、やっぱりとんでもない出来事です。これを契機に、復興した学校は、郊外の目黒区大岡山に移転しました。

こちらは、その蔵前工業学園ができる前にあった、
浅草文庫という官立図書館を記念する石碑。

なかなか興味深い石碑が並ぶ神社でした。

そして、ぐるっと回って浅草橋駅に到着。なかなか見どころの多いコースだと思います。

設備配管がものすごい、浅草橋駅の出入口。

■終わりに

浅草橋駅から隅田川を渡り、両国を歩いて再び隅田川を渡り、蔵前を経て、浅草橋に戻る歩くコース。関東大震災や帝都復興事業のことを色々と知りながら、ブラブラ歩くのは、なかなか発見が多いものだと思います。

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