"いつものユニフォーム"とお別れします。
長年連れ添ってきた、CORDIER 52とシート圧着してある2016年ファンクラブ特典ユニフォームを着ていくことを、やめることにしました。
理由は非常にシンプルで、圧着シートの劣化が激しく、着用に耐えない状態にまで悪化したからです。
シートゆえ、ハイクオリティユニフォームのワッペンよりも劣化しやすいというところはもちろんあるでしょうが、それ以上に2016年の開幕直後の作成以降、いろんな場面で着用してきました。それだけに劣化も一段と進んだでしょうし、思い入れがあります。
昨今、「ファンのあり方論」が盛んに議論(多くは議論と呼べず、個人の理想を殴りつけているだけに感じますが)される中でも、「ファンが身につけるもの」も一定言及されがちな分野であります。在籍の有無はもちろん、今一軍にいる、果ては出場自体にまでそれを問う方もいるようです。
また、「推し活」的文脈とも相まって、ユニフォームから多種多様な関連グッズ、選手個人の嗜好を元にした非公式のものに至るまで、ありとあらゆる「好き」の表現方法が発出される時代となりました。
その中で、今となっては不在の、ともすればネタと捉えられる選手のユニフォームにこだわり続けたのは、それによって自分の「好き」への本気度を示したかったということがあります。
ある試合の帰路、いつものように例のユニフォームを着て球場最寄り駅で電車を待っていました。
そこで居合わせた、私とほぼ同時期からのファン歴を名乗るあるアカウント(凍結済み)より、「こんな選手のユニフォームを着ている奴がいるから試合に負けたんだ。疫病神だ。球場に来るな」との趣旨のツイートをされることがありました。
いかに実力とサラリーのバランスがチームに見合わないから去った選手であっても、チームのためにもがいた本人の努力は確かに存在しました。しかし、それは捨象されているわけです。もちろんチームのために満足に働けなかったという点ではその通りなのでしょう。ただ、不和をもたらす行動があったわけでもない、ましてオリックスでは「一般的」な、温和な外国人選手。それにそこまでの文脈を見出すことができることに、怒りとともに、着用して球場に行く意味をより明確に見出しました。
「ネタ」扱いされる選手は悪なのか?
個人の好き嫌いの尺度は全否定されなければならないのか?
そういう反発が、球場に行くなら「あのユニフォームでなければならない」と強く思わせてくれました。
私がプロ野球を観始めた時代のオリックスは、どうしようもなく弱く、弱いだけならまだしも、現代のコンプライアンス意識では考えられないような状況でありました。しかし、その中で耐え忍んだ選手が後に大きな花を咲かせた例がいくつもあります。
同じ時代を過ごしたはずなのに、いやそれゆえか、各個人の想いまでが成績やのちの取り扱われ方で否定されるのは悲しい。
かのツイッタラーから得られた決意で、どんなにその選手が低迷していても、その末退団することになっても、今日自分が着るならこれだ、という感覚に素直に従って今後も球場に向かいます。
あ、公序良俗に反しそうなやつは例外です。念のため。
これからも、「好き」を最低限の配慮のうえで、自分なりの方法で表現していきたいと思います。
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