A4一枚のエンディングノート
「小さい秋をどうぞ。」
座ったまま、ぼんやりとした視線を宙に浮かべる父に声をかけると「おう、いいな…」。
でもまたすぐに意識はうつろな世界へ。
この時はまだ、1か月後のお別れなんて、思いも寄らなかった…。
父からのエンディングノート
2005年春、一枚のCDが届いた。太字の万年筆で綴られた見覚えのある筆跡。父からだ。『「生」を終わるときのこと』という表題の後には、満70歳の誕生日に記した、A4一枚のエンディングノートが収められていた。
誕生日前の秋。父はいつものように早池峰山(標高1917m)の登山しながらふらつきを感じ、その時を最後に山登りを封印した。若い頃にはヒマラヤ遠征隊にも声をかけられたほど達者で、何よりあんなに大好きだった登山をきっぱりと辞めてしまうその引き際の良さに驚かされ、同時に父らしさを感じたものだった。
それから程無くして作成したエンディングノート。仕事に子育てにと毎日フル稼働状態の私は、CDを机の引き出しに仕舞い込んだが、実はこの時から人生会議は始まっていた。
緊急事態宣言明けの帰省
2021年は、新型コロナウィルスが世界中を翻弄した。幾分感染者が減少傾向となった六月下旬に久しぶりに実家へ帰省した私は、何とはなしにあのエンディングーノートの中身について、父に尋ねた。「今も、考えは変わっていないの?」と。父は穏やかな笑みを湛えながら、あそこに書いた通りだと話し、原本の保管場所を教えてくれた。
10年ほど前から、不整脈等で通院を重ね少しずつ体力を落とし、一回りも二回りも小さくなった背中。書斎の窓辺で庭木を静かに見やる父の姿に、『晩年』という言葉が浮かんだ。私は、父が人生の坂道を最期に向けて少しずつ下り始めたのだと感じていた。
お父さんが壊れちゃった
連日の猛暑にうんざりしていた八月初旬。「お父さんが緊急入院したの」と電話の向こうの母は困惑気味。私の脳裏をかすめた、"心・筋・梗・塞"の4文字。ところが実際には胸水で…と言うので、ほっと胸を撫で下ろした。しかし突然のことに母の声は上ずり、まるで壊れたレコードプレーヤーのように、何度も同じことを繰り返していた。コロナ渦の面会制限は、母の不安をさらに倍増させていた。
その晩、もう日付が変わろうかという頃に、再び母からの電話。入院中の父が、夜間せん妄によって看護師を殴ったり、暴言を吐いたりしているのだと。父は生命に別条はなかったが、混乱しまくっている母に寧ろサポートが必要ではと、私は帰省を考え始めた。不思議なことに、なぜか今この機会を逃したら、後悔するような気がする…と思ったのだった。
翌朝、娘と婿殿は快く背中を押してくれた。お母さんの気持ちを大事にしたほうがいいよって。そして、私はわずか1か月余りで再び実家に舞い戻ることとなったのである。
父は膿胸と診断された後、3週間ほどで退院できたが、まさかの認知症に母は力なく呟いた。
「おとうさんが、壊れちゃった…」。
父との貴重な1か月半
退院後1週間ほど無気力状態が続いた。ある日急に別冊サイエンスや植物学の専門書を引っ張り出してページを繰り始めた父は、明らかに混乱していた。どうやら、文章を読んだり理解したりできない現実に直面しているのだろう。数日間、難しい表情をしながらページを睨みつけ、自分が書いた何枚かのメモを見比べては首を傾げていたが、状況を受け止めたのか、できなくなってしまったことについては、サポートしてほしいと伝えてくれるようになった。一日の間でも認知症の程度は随分と変動し、時には以前と同様に対話できた。そうかと思えば辻褄の合わない理屈を並べるなど、こんなにも差があるのかと驚かされた。
レビー小体型の認知症が疑われた際には、処方薬によって数日間パーキソニズムの出現を見た。すくみ足や小刻み歩行に前傾姿勢。このまま動画に納めたら、看護学生の教材になるなぁ。以前看護学科で老年看護学を教えていた私は、不謹慎にもそんなことを思ったが、一方で父の歩行や転倒時の介助をしながら実は幸せな時間を過ごせているとも感じていた。父を介助しながら、幼き頃に父に大きな手で頭をポンポンしてもらったその感覚を思い出していた。この幸せのために私は今回帰省したのかも…、そんなことを思ったほどだ。
救命? それとも延命?
入院時からの咳込みは肺の病変によるものかと思っていたが、実際には食事のたびにむせがひどく、嚥下機能の著しい低下であることは明白だった。誤嚥予防の専用のコップを用意し、飲み物には必ずとろみを付け、献立にも工夫を凝らしてみた。食前には嚥下体操を父と一緒に。しかし一向に改善せず、寧ろ息苦しさも強くなる一方だ。すると父は、「もういいな。もういいんじゃないかな」と、何度も口にするようになった。外来を受診すると誤嚥性肺炎と診断されたが、入院は再びせん妄を引き起こす懸念があり、数日間点滴のために処置室通いをすることにした。
その日の夕方、呼吸状態は悪化。パルスオキシメーターは85%を示した。明日の朝が待ち遠しい。夜21時頃のこと。トイレでガタガタンとただならぬ音。顔面は蒼白、紫色の唇をした父が意識を失って倒れていた。呼吸は浅く速く脈拍も速い。父の名前を何度も呼びながらパルスオキシメーターの75%という文字に「やばいな!!」。 母に救急車を呼ぶよう指示し、父を毛布でくるみながらも、私の脳内で『これは救命なのか、延命なのか…』と問いだけがぐるぐるしていた。とにかく父が記したA4のエンディングノートをカバンに潜めて、夜間救急へと飛び込んだのだ。
アドバンス・ケア・プランニングの真っただ中に
「ご家族の方…中へどうぞ」。母と二人、急患室の一番奥に通され、一人の医師が電子カルテの画面を見つめていた。私たちを一瞥してすぐに画面のCT画像をスクロールし始めた。低い声で、だけど淡々と、シビアな状況について、医師は話し始めた。この先、経口的な飲食は期待できないこと。認知症もあるので今後の治療方針について父自身が判断していくことは難しいであろうこと。そして、父の意向を汲んでどうしたいのかを家族が父の願いを代弁する必要があるということを告げられた。心の暗がりの奥で、パリンッと何かが小さな音をたてて割れた。
今年になって私は仲間たちともしもの時の医療ケアについて記録するノート『私の生き方連絡ノート』を書こう会(オンラインワークショップ)で、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)についてお伝えしてきた。今まさにACP真っただ中にぽんって放り出され、言いようのない不安を感じていた。
『生』が終わる時のこと
やはり、せん妄状態は現れ、体幹抑制をせざるを得ない状況になった。主治医と今後について話すために、入院翌日に病棟へ向かうと、母の不安な心持にご配慮下さり、ほんのちょっと父のもとに通していただいた。酸素吸入、点滴、心電図モニターを付け、いわゆるつなぎのような病衣を着せられた父は、苦しい呼吸で
「今から、町内会に行かなきゃならないから、(点滴を)外してほしい。」と落ち着かない。「お父さん、今日はね、息が苦しくて大変だから町内会はお休みしましょう。苦しいのが治ったら、また行きましょうね。」そう伝えるとうなずいてくれたけど、表情は険しい。傍らでおろおろするばかりの母を促して、病室を後にした。
前回入院時と同じ主治医は、言葉数は多いとは言えないけれど、いつも丁寧な対応をしてくださる。多忙な最中にもかかわらず、今回もゆっくりした口調で説明してくださった。紛れもなく、父は人生の最終段階にいた。私は徐に、父のエンディングノートのコピーを医師に差し出した。そこには、次のように書かれていた。
~「生」を終わる時のこと~
まず、人工呼吸器や経管栄養などの延命処置は原則として辞退します。チューブにつながれて「生かされる」のは望みません。ただし、角膜と腎を心臓死の後に提供することにしているので、摘出処置までの間、人工呼吸を受けることまで否定するものではありません。「原則として」はその意味です。また登録してある角膜と腎の他にも、その時点で皮膚も含めて利用できる臓器などがあれば利用してもらってもかまいません。いずれ灰になるものですし、両親から与えられ、大切にしなければならないものであるとしても、こうした利用は認めてもらえるものと確信しています。
以上の処置等は終末期の期間が比較的短い場合を想定していますが。もう一つの形として老衰など緩やかに終末を迎える場合もありえます。この場合もやはり延命を目的とした栄養補給などはしないでください。自然に植物が朽ちて行くように、死を迎えたいと思います。そうすれば、痛みや苦しみも少ないのではないかと期待するからです。ただし、耐え難い痛みや苦しみは願い下げにしたいので、その場合には鎮痛剤など医学的処置を講じてください。
私の理想とする死に方は「野垂れ死に」、別の表現をすれば行き倒れです。ですから葬儀も不要です…(後略)…
2005.02.26 満70歳の日に
15年前に書いたものだが、今年6月に父に内容確認しておいて、本当に良かったと思う。
父の最期に向けて医療をどのように、そして看取りはどこで…
エンディングノートを手掛かりに、まずは経管栄養や人工呼吸器は用いないことを確認。酸素吸入は、本人の状況に合わせて、苦しみを軽減する程度にということになった。
そこで主治医が父の文章中の一文を指示し、私たちに問いかけてくださった。「『自然に植物が朽ちて行くように、死を迎えたいと思います。』とありますが、点滴はどうしましょうか…」。母は、点滴は最後までと希望した。お父さんがかわいそうだから…と。点滴による水分補給を行う場合とそうではない場合とではどう違うのだろうか?医師は、看取り期に1か月ほどの違いを生み出す可能性がある。家族の心情を汲んで、500ml程度の点滴を継続する場合も少なくないとも教えてくださった。認知症やせん妄はあっても意識が鮮明な父の命に線引きすること。これは何とも表現しがたい痛みを伴うものだと、初めて知った。
さらに、亡くなるまで、1か月以上の時間を残す場合、療養型のある病院への転院を求められるだろうと。もし1か月未満であれば、同院の別病棟=地域包括ケア病棟へ転棟し、看取りをそこで迎えられる可能性が大きいとも。そして物理的に一番近い療養型を有する病院に転院するとなると、隣の市になってしまうこと。もしそこで急変した場合は、車で1時間以上かかるので、看取りに間に合わないこともあるかもしれない…。
では、在宅で父を看取ることは可能だろうか。残念ながら同市内の在宅診療や訪問看護ステーションの現状として、父のような患者さんを安心して看取っていただける仕組みが整っているとは言えないという。
さて、どうしたもんか。点滴については、一旦持ち帰って検討することにした。
帰宅後、母との対話を何回も…何回も繰り返した。そもそも、80歳過ぎの母は、主治医と私の会話の半分ほどしか飲み込めていなかった。もう一度医師の説明を繰り返しながら、せん妄状態にある父をこのまま身体抑制し続けることに私の心は痛むことも伝えた。点滴を一日に1本行うためだけに、抑制を強いなければならない現状に、合点がいかなかったから。そして、これまでの父の生き様を振り返ると、いつも何かに終いを付けるときの潔さを思い出すと、父はきっぱりここで終止符を打ちたいのではないかと思う。そう話す私に母は、あなたは冷たいと言い放った。それでも母は、一度は、じゃあ仕方ないね。点滴もやめるしかないね…といったが、就寝前にまた同じ問答を繰り返すことになった。母は何度も「点滴を止めたらお父さんが干からびてかわいそう…」と繰り返すばかり。もう、ここは母の気持ちに寄り添うべきなのかも…。さらに、点滴をしたままの父を在宅で看取る方法は本当にないのだろうかとも考えた。住み慣れた場所なら、体幹抑制を外して点滴を継続できるのでは?という考えも過ったりして。
私の看護師としての知識と経験は、ずいぶん錆びついているけれど、期間限定ならなんとか頑張れる?
なかなか結論を出せぬまま、2日後に事態は動いた。父は消化管出血を起こしていたのだ。要因として入院そのものや、管類による自由の喪失、そして身体抑制もあるだろうと予測された。体幹抑制用のベストを引きちぎったという事実がそれを物語っている。それでも母は、点滴を辞めるとは言わなかった。
幸い輸血のおかげで幾分持ち直したかのように見える父に、母は口腔ケア材料を持参した折に、わずかな時間だったが、父と面会ができた。点滴をして、酸素2リットル。体幹抑制のためのベストを着た父は、母を見てこう言ったという。「もういいから、早く何とかしてほしい…」。
母は、父の点滴を辞めることを決断した。
父の旅立ち
点滴の中止とともに、地域包括支援病棟の個室に移動でき、母は毎日父と面会できるようになった。
「おとうさん!」と呼びかけられれば、無言でうなずく父。一言二言の会話が、どれだけ二人の絆を深めただろうか。日一日と父の声は小さくなり、点滴を止めてから1週間後の早朝、私のスマートフォンが鳴った。
一度自宅に戻っていた私は、電話にて母を父のもとに向かわせた。喘ぎながら父は母と視線を合わせ、母はいつものように「お父さん、大丈夫?」と問いかけ、父はこっくりこっくりと2~3度うなずいてほどなく今生に別れを告げたという。
真白の寝具に身を包み横たわった父。お顔も体も全く浮腫むことなく、穏やかな表情でまるで眠っているようだった。仕事柄、何度か看取り経験はあるが、美しいなと思えたのは初めてだったかもしれない。
最後の入院から20日余り。私と母は、幾度父の最期について話しただろうか。また、何度、主治医と相談を重ねてきただろうか。繰り返された対話の中心にあったのはいつも父のエンディングノートと、記憶に残る父の生き様だった。
間もなく百箇日。父を見送った後も、私はエンドライフオブケア、看取り、ACP、人生会議などのキーワードを手掛かりに学び続けている。都度、本当に父の最期はこれでよかったのだろうか。もっと違う視点で最良の策を考えられたのではないか。父は自分の願いが叶ったと果たして思っているのだろうか。おそらく正解のない自問自答が続いている。きっと、どうしたって何かしらの悔いは残るんだろうな…。それでも考え続けたい自分がいて、そんな自分が世の中に役立ててもらえる機会創りを模索し続けてもいる。
雪が溶け、水温む季節が廻り来る頃、父の願い通り、母とともに散骨をしようと思う。
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