胸いっぱいの愛を。
そこには二人の男性と僕の3人だけ立っていた。辺り一面、見渡す限りに真っ白な空間には暑さも寒さも無く、まだぼやけている頭でもこれは夢なんだと確信した。だってこんなところに、見知らぬ男性と自分の祖父が立っているわけがないもの。
いつの間にか僕は、バンドTシャツにボロボロのジーンズという普段の服装に着替えていたようだ。顔の部分にちょうど影がかかったスーツ姿の男性に手招きされるまま、僕は祖父の前まで歩く。
僕が目の前まで来ても彼は、誰だか分かっていない様子でこちらを見つめていた。
彼は数年ほど前に心臓を患い、体内にペースメーカーを入れている。おまけに軽い認知症という有名な難病も併発し、身体だけでなく精神もあちらの世界に片足を突っ込んでいるのだ。孫である僕のことが少々分からなくなることも、仕方がない。
僕には祖父に遊んでもらった記憶がほとんどない。
寡黙で仕事熱心だった彼は、朝早くに家を出て暗くなったら帰ってきて飯と風呂を済ませ、床につく。そんな彼は、妻と息子、つまり僕の祖母と父とよく喧嘩をしていた。僕にとってはそれが日常茶飯事だった為特に気にすることもなかったが、あまりいい気分ではなかった。何となく距離を置いてしまった。
僕の記憶の中にある祖父との甘い思い出は、てっぽうのおもちゃを竹で作ってくれた事と、たった一回だけお小遣いをねだったことだ。
随分昔のこと、おそらく僕が小学校の低学年だった頃のことだったように記憶している。僕が両親にてっぽうのおもちゃが欲しいと駄々をこねていたとき、祖父が一緒に作りに行こうと言ってくれたのだ。火で竹を炙りながら加工をするその姿は、僕には本当の職人に見えた。出来上がったてっぽうは僕が欲しかったものとは程遠い見た目をしていたが、世界で一挺しかない僕だけのおもちゃは、本当に嬉しかった。
お小遣いは、僕が中学生の頃。
アルバイトなんてできるはずもなく、友達と遊びに行くときには親から少しだけお金をもらったり今まで貯めていたお年玉を切り崩したりしてやりくりをしていた。今にして思えば、結構甘々な日々だったな。
その日は祖母からお小遣いをもらおうと意気揚々とその旨を伝えた。しかし、そこで返ってきた言葉は「今持ち合わせがないから、じいちゃんに頼んでみな?」という、全く予想だにしていなかった返答だった。
今まで頼んだことのない相手に向かって、しかもお金のやり取りをしようとしていたのだから怖くても仕方がないよと、あの日の僕に言ってあげたい。
恐る恐る祖父を尋ねてみると、今まで見たことのないくらいに優しい笑顔で僕に5000円札を握らせた。
今までお年玉でさえ手渡されたことがなかった僕は面食らって、しばらく硬直してしまっていたようだ。そして祖父からの「それで足りるか?」という質問をきっかけに僕の時間は動き出した。僕は「ありがとう。」と言い終わるのが早いか、家を飛び出した。彼からの優しさを背中に受けながら。
彼を目の前にして、そんなことを思い返していた。
相変わらず目の前の僕のことが誰だか正確には分かっていない様子で、きょろきょろとしている。隣のスーツの男も変わらず顔に影がかかっているが、先ほどよりその表情はどこか悲しそうな、見えないけどそんな気がした。
だから、というわけではないが。僕は、祖父のことを強く、優しく抱きしめた。容易に腕が回った祖父の身体は、僕の想像の何倍も小さく、これ以上強く力を込めると壊れてしまいそうなほどに細く薄かった。
それに応えるように祖父は、僕の背中に手を回してくれた。祖父の震える細腕では、僕の背中に手を回しきれない。それでも、確かな大きさを感じた。物理的ではない、期待や不安、思いやり、愛の大きさだと。
その時の祖父の顔を見ることはできなかったけど、あの日のようにきっと笑ってくれていたと思う。
そして僕たちは、眩い光りに包まれた。
目が覚めた時には全身にじんわりと汗をかいていたが、不思議と不快ではなかったことを覚えている。
時間を確認しようと点けた携帯には、AM 5:00の文字が眩しく光っていた。
家族に連絡を取ろうと思ったが、すぐにやめた。身近な人間に告げるべきではないと思ったから。その時がきたら話そうと思うが、しばらくは御免だ。