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「男として生まれる」ということ

「男として生まれる」ということ

 ある夜、街灯がわずかに照らす歩道を歩きながら、自分の人生を振り返ることがあった。男として生まれるということは、言うなれば最初からちょっとだけハードモードなのではないか、と。もちろん、それは決して女性のほうがイージーモードだとか、彼女たちの苦労がないだとか、そんな単純な話ではない。だけど自分の経験上、男だからこそ背負わなくてはいけない重圧や期待、そして心に抱える不安は少なくない。子どもの頃から「強くあるべき」「頼りがいがあるべき」という声なき声を浴び続けてきたからだろうか。

 小学生の頃、昼休みの校庭でよく喧嘩があった。自分より大柄な子が友だちをいじめているのを見過ごすわけにはいかなくて、勇気を振り絞って止めに入ったことがある。友だちを守るためだという正義感もあったし、何より「男ならやるべきだ」という漠然とした義務感のようなものに突き動かされたのだ。しかし、それで得たものは称賛よりも、周囲からの「やっぱり男はケンカも強くないとな」という固定観念だった。表向きは「すごいじゃん!」と褒められつつも、実は「やらなくてはいけないことをやった」だけだと周りに思われていたのかもしれない。感謝の言葉よりも「男だから当然だろ?」といった雰囲気を感じ、複雑な気持ちを抱いたのを覚えている。

 中学生や高校生になると、今度は「成績はそこそこでもいいかもしれないけど、どうせならトップを目指せ」「将来はしっかり稼いで家族を養えるようにならないと」など、まるで目に見えないチェックリストが存在しているように感じた。スポーツでも勉強でも、男の子として周りからの期待を裏切らないために、努力せざるを得ない。少しでもレールから外れると、「男なのにがっかりだね」とか「もっとしっかりしろよ」という声がいつか飛んでくるんじゃないかと常におびえていた。自分の未来を考えるときに、学びたいことや興味があることだけでなく、「社会的にどのように見られるか」「周りからどう評価されるか」を意識せずにはいられなかった。

 その一方で、男性であることで得られる特権もあるのではないか、と考えたこともある。例えば仕事を探す際、男女格差の文脈はあれど、男性のほうが有利とされる場面も現実には存在する。だからといって「男である」ことが常にプラスに働くわけでもなく、結果を出せないと厳しい視線が待っている。まるで「高いハードルを跳べたら評価してあげるけど、失敗したら罰ゲームだよ」と言われているような感覚だ。スタートラインがどこにあろうと、僕らは「結果」を出さなければならない立場にあるように思う。これが、僕が感じる「男として生まれるのはハードモード」だという一つの理由だ。

 大学に進学した頃から、そういうプレッシャーを跳ね返すために、僕はとにかく行動しようと思い始めた。何もしなければ周囲に流されるだけだし、結局「何もできない男」になってしまう。それが何よりも恐ろしかった。成績向上のために毎日図書館に通い、資格取得の勉強にも力を入れた。さらに、運動不足を解消しようと考え、思い切ってジムに入会した。今思うと、あのときの僕はかなり空回りしていた気もする。「男なんだから仕事も運動も全部こなして当たり前」と、勝手に自分で自分のハードルを上げていたのだ。

 それでもジムで汗を流していると、「今日はダンベルを前回より2キロ重くしてやってみよう」「ベンチプレスもまだまだ伸ばせそうだ」など、少しずつ成長していく手応えがあった。勉強のように目に見えない成果ではなく、筋トレは数値や使用重量で自分の頑張りがハッキリと可視化される。これは非常にわかりやすく、達成感を得やすい。僕にとっては、それまで抱えてきた「やらねばならない」「しっかりしなくちゃいけない」という外的プレッシャーだけでなく、「やればちゃんと結果が返ってくる」という前向きな気持ちを育んでくれる場所だった。

 筋トレや勉強に加えて、社会に出てからは仕事でも経験値を積んでいく。最初は何かと大変だったが、やがて成果が形となり、周囲から信頼されるようになってきた。さらに収入が上がるにつれて、憧れだった車を買うこともできた。いわゆる「男の夢」ってやつを少しずつ手に入れている気分になり、「ああ、やっぱり努力をすれば自分の望むものは手に入るんだな」と実感できた。

 そうは言っても、人生はジグザグだ。特に男に限った話ではないが、ときには職場で大きな失敗をして落ち込むこともあれば、人間関係がうまくいかずにストレスで食欲も落ちることだってある。けれど、そんなときこそジムに行って汗を流す。腹筋をきしませ、上腕二頭筋を燃やす。その痛みと共に嫌なことが血管の中を通り抜けていき、シャワーを浴びる頃には「また明日も頑張るか」と思えるようになる。高いハードルを跳ばなきゃいけないハードモードであっても、一歩一歩踏みしめていけば、いつかは飛び越えられるようになるのだと信じている。

 そして、そんな「ハードモード」を行進するうえでの最大の秘訣は、結局のところ「自分自身を好きでいること」に尽きると思う。男として生まれたことを嘆くのではなく、だからこそ持てる力を最大限に伸ばしていこうとする。外部の評価や社会的なプレッシャーは常につきまとうけれど、その声に完璧に応えようとする必要はない。大切なのは、「今日の自分は昨日の自分よりちょっとだけ成長している」と感じられること。その小さな成功の積み重ねが、自分の人生を豊かにしてくれる。

 男として生まれるのはハードモードかもしれない。だけど、だからこそ育まれる強さや覚悟もある。勉強も筋トレも仕事も、やればやるほど結果につながる。その積み重ねが、いつの日か強固な自信と、多くの選択肢を与えてくれる。そうして手に入るものは、地位やお金といった目に見えるものであると同時に、「自分が人生をコントロールできる」という満足感かもしれない。

 僕は今夜もジムの帰り道を歩きながら、思い描く。いつか、もっと先の未来で振り返ったとき、「あの頃は大変だったけど頑張ってよかった」と笑える自分でありたい。周りから決められた『男の姿』のためではなく、自分が望む『男の姿』を追い続けるために――これからも一歩ずつ、重りを握りしめて前へ進もうと思う。

 これが、僕が日々実感する「男として生まれる」ことの物語であり、同時に僕がジムに通い、勉強を続ける理由だ。僕たちの人生は決して甘くないかもしれない。でもだからこそ、手に入れられるものは大きい。努力を積み重ねていけば、自分の手足を動かして築き上げた未来が確かにそこにある。これからもハードモードを楽しんでやろうじゃないか。

 ここまで読んでくれて、ありがとう。これからも一緒に自分の可能性を広げていこう。ハードモードにはハードモードなりの、醍醐味があるのだから。

では、ごきげんよう!

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