ぼくが竹下焼豚になるまで
どうも、竹下焼豚です。
今は大学の図書館で、大正時代の港区の地図とにらめっこしながら卒論の構想を練っているのですが、疲れたので逃避noteです。
いつもライブに来てくださる皆さまや、芸人仲間は竹下焼豚のことはよくご存知だとは思うのですが、僕が竹下焼豚になる前の話はどのくらいご存知でしょうか。
今日は僕がどのようにして竹下焼豚になったのか、皆さんにお話します。
さしずめ、竹下焼豚wikiといったところでしょうか。
2001.5
竹下凌、福岡県福岡市中央区舞鶴にて、司法書士の父と専業主婦の母のもとに誕生。両親と2人の姉に囲まれて育つ。
2003
父の故郷である福岡県大野城市に移り住む。以来、大学進学で北九州で一人暮らしを始めるまで、16年間、この町で暮らす。
2005
大野東幼稚園に入園。同じ組の女の子を好きになるが、その子は2年後に東京に引っ越してしまう。
2008
大野東小学校に入学。人見知りで、少しませた少年だった。
入学から2日後、「トイレのつかいかた」をみんなで先生から習っている最中、後ろの席の「ひろくん」からちょっかいをかけられる。
この時に手塚治虫の「ブラックジャック」を読み、漫画家を志す。この日から小学校6年間、絵を描かない日はなかった。
2010
小学3年生になり、入学してから1番つまらない一学期を過ごす。
夏休み前の終業式のあと、クラスの前でひろくんが仲間を4人引き連れ漫才をしており、それを見た僕は「こんなに面白い人が近くにいたなんて」と感動を覚え、彼に付いて行けば楽しくなると思い弟子入りする。この時が僕のお笑いの原点である。
二学期には「こびと探し」というコントをひろくんが作って2人で演じ、それがウケる。お笑い楽しい!と思うようになる。
今、ひろくんはアメリカの大学で生物学を勉強している。ひろくんが「サッカーをしよう」と言うと、男女関係なく、クラス全員が校庭に駆けていくような、彼は本物のカリスマだった。
この時期に、おたふく風邪で学校を休んだのだが、先生から親に電話がかかってきて「凌くんがいないからみんなつまらなさそうでした」と言われたことも、僕のアイデンティティの形成に大きく関わっているだろう。この時に僕は「明るいヤツは得をする」と学んだ。
2011
小学4年生になり、ひろくんとクラスは離れるも、1人でお笑いキャラで定着。
人生で初めて書いた「反抗期」というコントと、「カキフライ」というコントがウケる。前者は特にウケた。前者のコントは「いきものがかりの曲に合わせて殴り合う」という、今思い返してもいかにも僕が書きそうなネタである。
2012
小学5年生になり、全校の前でレクレーション大会を仕切る役を与えられる。
頑張って仕切っていると、小学6年生のお兄さんたちが「お前面白いな〜」と言ってくれ、人を楽しませるのは最高だ!と改めて感じる。
2013
小学6年生、O先生という先生のクラスになる。O先生は自由な人で、お笑いが好きな先生で、僕はそこから様々なことを学ぶ。授業中も、生徒と先生で掛け合っていて、今思い返すと本当にあれはライブの平場と同じだった。
先生の弾くギターでみんなで歌っている時間が楽しかった。
と同時に中学1年生の漫画家志望がジャンプの賞で賞金30万円の佳作を取っているのを見て、自分とのレベルの差に絶望し、漫画家の夢を挫折。
2014
大野東中学校に入学。剣道部に入部。
同じ小学校の小松くんと、半ば強引に「フキンシンズ」を結成。(もちろん僕が強引に誘った側)
「最近見た映画」という漫才をずっとやっていた。
あと、剣道を始めたことと、身長の急な伸びで、小学校6年生から激ヤセした。
2015
中学2年生になり、剣道部で出会った大武くんと、「ツーボーズ」を結成。たくさんネタを作ったが、お気に入りは「テレフォンショッピング」という漫才だった。
以前、この漫才をしている動画をアヒルタイタンの池松さん(ひろろん)に見せたら「この時の方がツッコミ上手いね」と言われてしまう。
この大武くんは今でもハートが帰らないの単独を手伝うなど、スタッフとして関わってくれている。
2016
中学3年生、生徒会役員だった僕は、同じく生徒会役員で野球部部長のふーくんと「第三生活」(後にビッグステップに改名)を結成。大武くんからは「浮気性だね」と言われる。
文化祭で「体操」という漫才を披露するも、ダダ滑り。ガストで反省会。なぜか大武くんも同席。
そして剣道部の卒部式にてツーボーズで漫才を披露。この時、後輩のお父さんに「君は芸人にならなきゃダメだ」と言われ、プロを意識し始める。
この時までもお笑いは好きだったが「俺にはプロなんて…」と思っていた。しかしこの一言で「あれ?もしかしていける?」と思ってしまう。
2017
福岡県立筑紫高校に進学。剣道部に入部。人生で初めて、補欠ではなくスタメンに入れるも、1年で補欠に落ちる。3年生になると、補欠なのに副部長という何とも物悲しい役割を与えられる。そして、試合であまり活躍できない僕を先生が「盛り上げリーダー」に任命してくれる。情けない……。
2019
高校3年生の体育大会(僕の高校では、体育祭と呼んだら「祭じゃない」と怒られていたので、体育大会)で、同級生のまっすーと興梠と3人で「カセキホリダーチャンネル」を結成し、「自己紹介」というネタを披露。ややウケで終わる。
そして高校3年生の卒業式で「公爵芋」というコンビを組み、漫才をする。その動画がTikTokで77万再生、4万7000いいねでバズる。
ハートが帰らないを結成していなければ、もしかしたらこのコンビを再結成していたかもしれない。相方の南くんは今、ボルダリングで目覚しい功績を上げている。
2020.4
北九州市立大学文学部比較文化学科に進学。一人暮らしを始める。女子が7割の学科で、クラスに男は僕1人でドキマギしてしまう。
同時期に「カセキホリダーチャンネル」のまっすーと「背水ノ陣」を結成。
2人でM-1グランプリに挑戦するも、1回戦落ち。この時披露したのは「衣装」という漫才。
なんかゴチャゴチャしていたし、僕はハチマキにタンクトップで、キャラ芸人みたいになっていた。
下の写真を見た石田から古賀までの石田さんからは「なんか嫌だ」と言われてしまう。
ちなみに、まっすーは未だに連絡をくれるすごく明るくて良い奴。ワンピースのルフィみたいな奴。
ネタ合わせのために、大野城市から北九州市まで原付で6時間かけて来てくれた。今はアメフトを頑張っている。
2020.7
コロナの影響で、入学してから3ヶ月以上も対面授業が無く、友達もできていなかった。それによりだいぶ病む。
夜中の散歩中に、気付くと6駅離れた場所の歩道橋の上を歩いていた。しかし家を出てからそこに至るまでの記憶が無く、さすがにやばいと身の危険を感じ始める。
そんな時に大学で初めての友達ができる。それが、今でもハートが帰らないのスタッフとして九地下のライブをたくさん手伝ってくれている「志郎」である。
最近彼はTwitterを始めた。フォローしてあげてください。
2021
大学で知り合ったイケメンのたいがと「権兵衛」を結成する。2人とも割と本気で取り組んでおり、単独ライブ「あの娘に俺が分かってたまるか」を開催。「やさしくなりたい」「怒れない」「名前」「ストーカー」の漫才4本を披露し、お客さんにどのネタが好きか投票してもらった。
M-1グランプリでは、単独ライブで1番人気がなかったものの、僕たちが1番好きだった「名前」を、好きなネタで負けたなら後悔はないとして披露。1回戦で落ちてしまう。
ちなみにこの時は本名ではなく、大学でのあだ名「ちくげ」でエントリーしている。
僕はコンビでの活動を続けたかったが、相方の申し出により解散。もしコンビを続けていたら「名前」のフォーマットで色んな漫才をやる予定だった。その後たいがとは色々あったが、今では仲直りしている。
2021.10
M-1グランプリの1回戦から1週間後、初めてのアマチュアライブ「ド素人」に出る。
それに伴い、ピン芸人としての芸名を友達から募集。結果、公爵芋時代の相方、南くんが提案した「竹下焼豚(チャーシュー)」を採用。竹下焼豚が誕生。
このライブで「石田から古賀まで」、「地雷原突破」(そのうち謝る、たかと(現:ドラッグスター))と知り合う。
「COLORED」なるアヒルタイタンとのツーマンライブの告知をしていた石田から古賀までだったが、この時はのちにハートが帰らないとしてこのライブに参加し、「STRONG COLORED」が生まれるとは予想だにもしなかった。
そして、1ヶ月後の「PLACE」というライブで、「アヒルタイタン」、「カロリン」、そして「すーとも」と出会うことになる。
そして、「ド素人」である程度いい感触を得ていた僕は、アヒルタイタンの「将棋」を見て、天狗の鼻をへし折られることになるのだった……。
だいたいこれが僕が竹下焼豚になるまでです。
だらだら書いてたら、もう3000文字超えちゃった!
卒論少しだけ進められたなあ...…。まあいいか。
みなさま、今後とも竹下凌くん、もとい竹下焼豚をどうぞよろしくお願いします。
10/11 追記
M-1グランプリ2回戦に進出できました。
ここに出てきた全員のおかげです。特にツーボーズであの日漫才をしてなければ、僕は芸人を夢見ることはなかったので、本当にありがたく思います。
2回戦頑張るぞ!