【僕はイエス様が嫌い】この世は美しく、残酷で不条理だ。祈りって…【ネタバレ有レビュー】
(はてなブログから移転にあたって転載)
こんにちは、ちぇるです。
先ほど、映画「僕はイエス様は嫌い」を鑑賞しました。
監督は22歳という異例の若さで、インディーズ映画とはとても思えない、非常に手が込んでいるなという印象でした。
公式サイトはこちら↓
某米津さん似な男の子・ユラが東京から雪国地方のミッションスクール(小学校)に引っ越して……というところから物語は始まります。
【あらすじ】
ネタバレ注意!
小学五年生の主人公・ユラは両親とともに1年だけ祖母のもとに引っ越すことになる。
祖母の家は良くも悪くも「日本の古い家」で、亡き祖父の祭壇や、いろんな置物が置いてあった。
特に神様らしい神様を信じているわけでもない普通の家計、だけど新しい小学校はミッションスクールだった。
ミッションスクールといってもフツーに学び、フツーの子供たち。
違うところといえば黒板に聖句(聖書の言葉)が書いてあったり、牧師さんがお話してみんなで歌ったり祈ったりする礼拝があることだろうか。
そんな行事や、聖書を持ってとまどいつつも、ユラは試しに、と「神様、ここでも友達ができますように」と誰もいない礼拝堂で祈ってみる。
そんな時だった。
なんと小人のようなイエス様が現れたのである!
本当に手乗りなコミカルなイエス様。
その後、ユラはカズマという同級生と知り合い、サッカーをして遊び友達になる。
「ああ、神様がかなえてくださったんだ」とユラは嬉しくなる。
その日の夜、入浴中のユラは、アヒルさんに乗っている小さなイエス様をじっと見て、
「お金をください」と祈ってみる。
そうすると、祖母から「おじいちゃんのへそくり見つけた」とお金を渡される。
本当にすごい、なんでもかなえてくれる、とユラは祈ると来てくれる小さな小さなイエス様を信じるようになる。
カズマと毎日のように遊び、クリスマスの日には別荘に呼ばれ雪景色の中二人の時間を楽しんだり、
カズマのお母さん(いつも笑っている、とユラは言う)のクリスマスのお祈りを聞いたりするユラ。
そんな日がずっと続くと思っていたが、ある日、カズマは車にはねられてしまう。
「イエス様、カズマがいる病院まで連れて行って」そうして小さなイエス様についていった先の病院で、重傷を負い昏睡状態にあるカズマと、嘆き悲しみながらカズマの父に「いつも自分のことばかり…」と訴えるカズマの母親の姿を見た。
ユラはなんでも叶えてくれるイエス様にお祈りしようと、全力でそのまま家に帰り、お祈りをする。
しかし。
イエス様は、現れなかった。
何度も、お願いだから、出てきて、そうしても、出てきてくれなかった。
初めて会った礼拝堂でお祈りしてみても、出てきてくれなかった。
そして後日、祈りはむなしくカズマは帰らぬ人となった。
ユラは、カズマの母親の希望で、カズマのお別れ会の弔辞を読み、祈りをすることを打診され、弱弱しく承諾する。
その時、先生に「祈りは意味なかった」とぼそりと告げる。
弔辞には、イエス様のことは書かなかった。
お別れ会当日、ユラはカズマの好きな青色の花を献花として捧げる。
ただ、後になってまた会えたらサッカーを一緒にしたいから、もっとうまくなっておくね、それだけ。
礼拝堂の席の前の列には、いつも笑っていた、もう笑っていない、カズマの母親が座っていた。
弔辞を読み終わり、形だけの祈りをしようと思ったその時。
あの、イエス様が現れたのである。
イエス様は何かを訴えているようであった。
けれども、ユラは両手を振り上げ、
聖書の上に立っていたイエス様を叩き潰す。
そしてユラは、亡き祖父(日曜礼拝に通っていたという)がしていたように、
部屋の障子に穴を開け、そこからの景色を覗き込んだ。
雪の中、グラウンドでサッカーをしていた二人の情景が映り込みEND。
・・・っていう感じのお話です。
展開としてはそんなに真新しいものではないですが、
非常に雪景色がうつくしく、二人の関係性も絵面もとにかく脆く繊細だ、としか言えません。
実際の礼拝で歌ったことがある讃美歌をBGMに雪の中遊ぶ二人のシーンで涙ぐみました。
ユラの願いはある意味打算的でした。望んだことを叶えてくれと。
だけどそれが悪いわけじゃない。
人間なんて打算的でしょう、と思うのです。
それに対する「罰」ですか?
いいえ、キリストは罰は与えない(と僕は考えている)
それに罰だとしたら、こんなにも残酷なこと...
僕はこれを「世界の美しさと不条理の共存、また神と人の不完全さ」と思っています。
つまりいいことばかりでもないし、全能の神だからといって全部いいほうに物事を変えられる力は持ち合わせていないと。
神だって残酷だと思っています。(神の息子・イエス様は好きですが神様はめっちゃ人ころしてるので怖いです)
結局は「抜いたカードでデュエルしましょ」状態なのかもしれません。
その状況で神様は見守ってくださると。必ずしも自分にとってうまくいくわけじゃないけど。
ぼくも「イエス様が嫌い」でした。
家庭内不和やマイノリティ性やいじめや性暴力など、しなくていい苦労をすっごくしたと思います。
本当にキリストが嫌いだった時もあります。
でも嫌いは意識している証拠。
段々と「…本当は、いるんじゃないか」「僕がイエスという人の前にいても、その人は『うん、いいよそのままで』と言ってくれるだろうな」と思ってきていました。
結局隣あわせで歩んできたわけで。
それで大学に行き聖書を買って、どこか救われる感覚はあったのです。
そして去年実際に救われたのです。
何も起こってないけど、「生かさせてくれた=痛みを背負ってくれた」
死に損なったのも理由があるかなと。生きてた、それだけがギフトで。
でもカズマは死んでしまいます。
ユラは死を、あまりにも大きいものを背負わなければなりません。
イエス様がいてくれなかったから。
呼んだのに。
ここで祈りのつまずきを覚えるユラですが、神との信頼関係の回復はするのかどうか・・・
神なんていない、と思ったであろうユラですが、最後に亡き祖父がしたように障子の向こうの景色をみていたことから、
「…ほんとうは、どこかに(救いが)あるんじゃないか」
と思っていたのかもしれません。
雪の学校でサッカーをする二人、その直後にエンドロールで流れたこども讃美歌「主イエスとともに」のメッセージ性が強烈でした。
主イエスとともに 歩きましょう どこまでも
主イエスとともに 歩きましょう いつも
うれしい時も 悲しい時も 歩きましょう どこまでも
うれしい時も 悲しい時も 歩きましょう いつも ♪
「イエス様」に出会って、裏切られて、どうなるかわからないけど。
一度は知り合ったのだから、不思議な存在としておしゃべりしつづけるのではないでしょうか。
イエス様や神様って、あがめたたえる存在というよりも、愚痴っておしゃべりするような存在です、僕にとっては。
答えがでない非常に難しい映画ですが、非常に美しい絵と残酷な事実を描いていて、
友情をテーマにキリスト教文化の紹介(祈り、礼拝など)もちょろっとしていてとっつきやすい映画だと思いました!
不条理ばかりの世の中ですが、イマジナリーフレンドとしてでも、気休めでも、心のオアシスでもいい、はたまた音楽や芸術でもいい。自分を鼓舞するために、周りを労わるために祈りやお願いをする、その行為が人生に深みをもたらしてくれるのではないかな、と思います。
乱文で申し訳ございませんが最高の映画です。どうか鑑賞いただければと思います。
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