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自分を知るためには、回り道も必要だよね
私は無駄なことが嫌いで、できたら最短距離で目的地に着きたいと考えるタイプです。
これは日常生活に限らず、人生においても。
でも、今振り返ると回り道も多いし、それにそもそも目的地も自分でちゃんと決められてなかったかも、なんて今は感じます。
歳を重ねて色々と経験をしたり学んできて今思うのは、私たちは「経験」というものがしたいのだな、ということ。
そういう意味では、実際に目的地に辿り着くことよりも、そこに行くまでの過程を体験することを望んでいるのかもしれないですね。
「経験する」ということ自体には、正解も不正解もない。
だがら回り道だって「経験する」という点ではその道のりで出会う様々なものが貴重なんですね、きっと。
最近とても強く感じるのは、これからは本当に「自分を知る」ということが大切になってくるのではないかと思っています。
いや、自分のことなんてわかってるし…と思っていても、本当の意味では自分のことをみんなよく知らないのではないでしょうか。
かく言う私も、若い頃は全く自分のことがわかっちゃいなかったと思います。
自分が何が心地よく感じ、何が苦手なのか。
自分の長所はどんなところで、どんなことが弱いところなのか。
今日何を食べたいのか、何を着たいのか。
今どう感じてるのか。
好きなものも知っていたつもりだし、苦手なものや、自分のほしいものもわかっていたと思っていたのですが、本当の意味で自分の心の声を聞けていたかと言うとそうではなく、TVの情報や周囲の意見にかなり左右されていたのではないかと思います。
そもそも、幼い頃から親や学校教育、世間体…などなどに影響されて、純粋に自分がどう感じるかより、「こうあるべき」「こういうのがよい」という考え方にコントロールされてきていたのかもしれないと感じています。
自分の「こころ」の声よりも、「頭」の声に支配されてきていて、「こころ」の声はだんだん小さくなってしまっていたのか、はたまた「こころ」の声を聴く力が弱まってしまっていたのか…。
とにかく本当に自分がどう感じているかよりも、こうあるべきと言う観点から自分をジャッジして、自分が感じていることを無視し続けて、それに加えて、こうあるべき自分でないことに罪悪感を感じできた…。
だからこうあるべき自分になろうと努力して、でもなかなかそうはなれないから、また自分をジャッジする…。そしてまた努力する、と言う繰り返しをしてきていたように思います。
さて、今の私はどうかというと…
そのループからは抜け出しつつあります。
努力の末に、なりたい自分になれたのか?
いえいえ。そうではありません。
私の場合は、「立ち止まることを意識するようになった」というのがポイントかなと思っています。
私は、ついつい癖というか、無意識に頑張ろうとしてしまうんです。
特に無意識モードになるとそっちに自動運転が切り替わってしまう。
だから、意識して立ち止まって、点検をするようにしています。
自分はどう感じているか。
体はどんな感覚か。
そんなことを意識すると、無意識のループに行ってしまっていたとしても少し戻れるんですね。
そこで自分はどうしたいか、理想というか自分のありたい状態を再確認するようにしています。
普段の自分がどれだけ無意識に支配されているか、それに気づくきっかけにもなります。
自分の人生の主人は自分自身。
自分の物語を生きるためには、まずは自分を知ることが大切かもしれません。
あなたはどんな人生の物語を生きたいですか?