年寄りの冷や水
「年寄りの冷や水」という言葉がある。高齢な自分の歳をわきまえずに若者の真似をして失敗するという意味である。この言葉は主に若い世代の人が高齢者を揶揄するような意味合いで使われるように思う。自分も
その通りだと思ってきたし、歳をとったらとったなりの風情になって、飄々(ひょうひょう)と生きてゆけたらこんないいことはないと思っている。ところがどっこい、である。医療、通信、精密機器や住宅などの技術が驚くほど進歩して、高齢になったからといって皆一様に衰えるわけではなく、むしろ衰え方が非常に幅広くなってきているようだ。そうなってくると歳をわきまえるとは、いったい何をわきまえたらいいのだろうか。いつまでも若々しい気持ちを持ち続けられる機会が増えているのに、年寄りぶらなければならないのだろうか。この言葉は私の中に確かに生きているものの、もうすでに時代遅れになっているのではないだろうかと思わざるを得ない。
もう一つ思うことは、若者と高齢者という対比ではなく、健常者と障害者、マジョリティとマイノリティという対比にも同じ構図が残っているのではないか、ということだ。多様性ということに社会が気づき始め一人ひとりを尊重しようといううねりの中で、自分と同じようにできない人を排除するような意識は時代遅れになっている。しかしそれが自分の中にまだ厳然とあることを痛感せざるを得ないのが現実である。
私は3年前にデンマークに留学した。58歳。体に色々と故障が出てきていた中で、一度も行ったことのない、未知の文化とデンマーク語の社会に10ヶ月。明らかに日本的に見れば「年寄りの冷や水」と言われて然るべき状況だ。学生をはじめ先生や職員の大半が年下という、これも日本的に見れば「浮いた」存在でもあった。
しかし、結果はどうやら「冷や水」ではなかった。私の知りたかったことの一つもそれだったのだが、私はフォルケホイスコーレの中ではいわゆる「年寄り」ではなかったからだ。高齢ではあるが、それは多様な学生の中の一バリエーションに過ぎなかった。私は他の学生たちと同じように生活し、ただ言葉が不自由で瞬発力のない、音楽とプログラミングが好きな学生であった。そしてここでは「歳をわきまえる」のは「自分をわきまえる」という言葉に置き換えられて全員がすべきことだった。それは自分を観察し、コントロールするという意味で、共通講義の中でも何度か示されていた。マジョリティはわきまえなくても良い、のではなく、だれもが自分をわきまえるという、それを知ることができたこと、経験することができたことがデンマークでの共同生活の大きな収穫だったことは間違いない。
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