権利と義務
権利と義務というのは学校に通っている時、仕事についたときにもしばしば聞いた言葉だ。自分が何かする権利を持っているということはそのために何かする義務があるのだということだ。権利だけを主張してはいけない、義務をちゃんと果たしてこそだ、という文脈だ。
何度も何度もそのような文脈で教えられ、聞かされてきたので、権利というのは自然に与えられるのではなく、相応の対価のように義務が発生するものだというような捉え方をするようになった。例えば、平日の昼間にどうしても見に行きたい舞台があって、それに行くには仕事を休まなければならない。仲間に迷惑がかかるのでその前後に残業しないといけないな、というような意識である。自分が何かの自由を得るには何かペナルティを払わねばならない、そんな感じなのだ。自分の権利と果たすべき義務。それらの間には関係があるようでいてはっきりとしたものはないようだ。そしてこのことは二つの意味で不幸であると思う。一つは権利というものを行使するときの罪悪感を感じること。権利には義務が付いてくるというが、権利にふさわしい義務がどのようなものか、よくわからないので自分がそのためにどのくらい義務を果たさねばならないかという不安を生じ、このくらいの義務でこんな権利を行使していいのかということになってしまう。もう一つは義務のペナルティ化である。義務が罰ゲームのような意味合いを持ってしまうことで、なにか辛い労役に感じられてしまう。このようなことで権利と義務の釣り合いを取ることができないのだ。
この、権利と義務にセットで現れてくる言葉が「責任」だ。権利を行使するならば責任を果たすという義務を守れ、というわけである。この文はしかし、ややもすると権利の行使は責任の放棄だというニュアンスを持ってしまう。なぜか、それは責任の範囲というものがはっきりとしていないからである。責任は果たすものであり迷惑をかけたら責任を取らなければならない。しかし責任というのはすべき仕事(役割)の範囲であり、その範囲がはっきりしていなければ責任を果たすことは非常に難しくなる。権利は具体的かつ明示なことが多いが責任は抽象的かつ暗示的なことが多い(日本では)。極端な言い方をすれば、広大な範囲を網羅して世間が認め納得するような「生き方」が責任なのである。このような文脈では今の時代で権利と義務のバランスをとって行くことは難しいだろう。
難しくはない、明確だ、という指摘もあるだろうと思う。私もそう思っていた一人だからだ。それは日本社会の規範というものを漠然と信じこんでいたためかも知れない。デンマークに行って、当然のことながら自分はマイノリティーである。自分の底に沈殿していた規範が引き上げられて白日のもとに晒してみたらよくわからないものだったので焦ったということだ。
「自分の人生に責任を負う機会が与えられること」が尊厳ある幸福な生活であるとデンマークは教えてくれた。責任とは自分で考え決めて行動することであり、責任を負うとは、その行動の結果が良くも悪くも自分が引き受けるということだ。良い結果を引き受けるためには良い仲間をつくり、良いコミュニティを作る必要がある。そのような機会が社会から与えられ続けていることが重要だというのである。責任を負える社会を作るために考え行動する。そのように考えたとき、権利と義務は一つのものになるのではないだろうか。