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自分をコントロールする

コントロールという言葉が好きだ。それは操るという意味合いではない。自分の意思と対象の特性が合致して互いに完全に役割を果たすという充足した瞬間である。若い頃は自分とモノとの間しか考えられなかったものだが、よくよく思い起こすと受験勉強の期間(いわゆる浪人中)に自分をコントロールする感覚を味わっていたような気がする。

この時期はとてもシンプルな生活スタイルだった。目標は目指す大学の試験日に最高のパフォーマンスを出すことだけだからだ。体調、学習計画、実施具合のフィードバック。自分を観察して計画、修正しながらひたすら進む。定期的なテストでビジュアル化されたわかりやすいデータも自動的に得られる。ここで私は自分という対象はコントロール可能なのだということに気づいたのだと思う。もっとも当時は意識してはいなかったが。

歳を重ね環境は当時の何倍も複雑になり、自分だけでは達成できない目標、予期せぬ外乱、コントロールできないとわかっている要素などを含んで日常が流れてゆく。しかしその中で少なくとも自分という対象がコントロールできるということがわかっていることは大きな救いだ。確かに自分の無力感を味わうことは多い。コントロールできる自分があまりにも小さいと感じるからだ。しかしコントロールできなくなったわけではない。今まである程度の期間を生きてきて身につけたコントロールのテクニックもある。それは観察と推定だ。一人の人間の限られた範囲であり、不正確なこともあるかもしれないが自分の五感で感じ、少し先の未来を予測できる可能性だ。これが実に面白い。

この面白さが実は私の人生の意味なのではないかとさえ思う。おそらく良い人生は自分の周りに居心地の良いコミュニティを作るために自分をコントロールする、その結果(評価)は自分の居心地の良さである。操るのではなく周りの人が同じような居心地の良さを感じながらそれぞれの役割を存分に果たしている状態。変化する環境の中でそれぞれコントロールを発揮して対応している状態。それはそれは面白い人生ではなかろうか。

他人に合わせるコントロールというのも確かにある。だがこの時自分の充足感を、つまりコントロールできたという満足感を持てるかどうか。コントロールした結果が自分に居心地の良さをもたらすかどうか。そこが一つのポイントだ。

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