悪口
なぜ、悪口を言うのだろう。自分が正しいと思っているから受け入れられないことを言う人を悪く言う。口に出して言わなくても心の中で言う。悪口には理屈が付いている。自分が正しくなるような理屈が付いている。その理屈は昔から自分が繰り返し温めてきているので外面は概ねまともなことことのように聞こえる。また、人から否定されないような小さな理屈が積み上がっているので自分もそれが正しいのだと思い込んでいる。さらに、その理屈は繰り返し繰り返し頭の中で辿られているのでもはや運動感覚、連鎖反応、条件反射のように出てくるようになっている。要するに力を使わずに直ちに発動されるようになっている。
だから、悪口を言うのは楽なのだ。思えば、デンマークにいた時には悪口は全く心の中でも言わなかった。当然である。自分が正しいのかどうかわからないのだから。条件反射的に出てくる理屈はこの国でYesなのかNoなのか。つかみどころがない。手探りで必死に考えて行動するのに手一杯でとても悪口など考えている暇も体力も気力もなかった。日本では相手は自分と同じように考えていると思う。しかしデンマークでは相手はほぼ確実に自分と異なる考え方をすると思った。するとどうするか。お互いに少しずつでも自分の考えをわかりやすいところから説明して行くしかない。そういうことだった。悔しいのは帰国してからそれに気づいたことだが。
楽をしようとしているということは別の見方をすれば、好奇心、探究心にあまり縁がないのかも知れない。自分と異なる考え方に興味が沸かないということだろう。実際そのような自己啓発的なストーリーは日本でも耳にタコができるくらいに聞いている。しかし、だ。悪口を思いつかないくらいに相手が理解できないというどうしようもない環境に出会ってこそそれは実感できた。そういうことか、多様性とは。そういうことか、個人主義とは。この得られた経験を日本の中でもっと活かして悪口を思いつかないような生活をすべきなんだなと思った次第。