やっぱり時間がない
60年もせわしない生活をしていると、それがすっかり普通になる。予定がみっちりと詰まっていないと不安になったり、周りが時間通りに動いているはずだという錯覚まで起こして来るので、万一時間通りでないことが起こると無性に腹立たしくなったりするようになる。そして何事も時間通りに動くものだ、動くべきだという無意識の圧力に支配されるようになる。
不思議なことに、時間に追われるのはもう勘弁してほしいと切に願いながら、時間に追われていないと不安になるということだ。今思えば時間に追われて動いている(動かされている)時が、自分が何か役に立っているような気になっていたことに気づく。どうも他人が決めた時間に追われている方が「正解」に近いのではないかと思っていたフシがある。その頃(若い頃)には時間に追われるという感覚は嫌というほど持ち合わせていたが、時間に追われない日常というものが、それを望んでいたにもかかわらず具体的なイメージを描けなかった。
それが、デンマークに行き、フォルケホイスコーレの共同生活で日本語のほぼ無い生活に入ったことで、強制的にリセットされた。スケジュールはあるが、みっちりではない。空いた時間はどうするか。ちょうどいいやと暇つぶしをする余裕などまったくない。言葉がほとんど理解できていないから、明日の授業の場所や、イベントなどの情報を何とかして聞き集め、とにかく迷子にならないようにと必死だった。最初のうちはどんなに準備しても不安だった。それでも数週間たって少し慣れてくると、デンマーク語の予習復習や自分のテーマである「高齢者の尊厳ある生活」について新聞を読んだり、自治体のサイトを読んだり、図書館に行ってやたらと本を手に取ったりする時間ができた。もちろんすらすら読めるわけではないので時間はべらぼうにかかる。したがってテレビでもネットでも娯楽で見るようなものはほぼ見なかった。
このように忙しい毎日ではあったが、日本にいた時のような「時間に追われる」という感覚はまったくなかった。必死にしなければならないことはたくさんあったが、それに「追われている」ことはなかったのだ。なにが違ったのだろうか。今となってはよくわかる。それは「自分で決めて自分で実行していた」からである。誰かが決めたことを時間通りにやろうとしていたのではない。自分でその時間を如何に使えば迷子にならないか、また、尊厳について知ることができるのか、それを自分で考えて決めて実行することができたのである。やらされている感がまったくない、その結果を自分で引き受けるのが楽しみになるくらいに充実したのだった。
私がデンマークから持ち帰った習慣の最も良いものは、この「自分で時間を使う」ということだ。余った時間に暇を潰すのは、時間に追われて疲れているからだということも最近はわかってきた。自分で時間を使っていれば、暇を潰すのがもったいないということがよくわかるし、何しろ疲れない。充実している。
時間はないといえば、ない。だからこそもったいない使い方はしないでいこうと思っている。