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幸福の本質?

今日はとあるZOOM会議があり、非常に興味深いテーマだったので参加した。そして大いに刺激を受けた。それはデンマークとブータンの幸福度について、それぞれの国に詳しい方に登壇してもらい話を聞くというものだった。私はデンマークのフォルケホイスコーレの経験があったので、デンマーク王国の幸福感についてはいろいろ考える時間がこれまでにあった。キーワードとして平等や対話、自由と責任などを中心に据えて考えてきた。一方ブータン王国は典型的な仏教国である。北欧の平等観や対話に基づくデモクラシーとはまた異なった社会モデルによる幸福があるのだということを知ることが今日はできたのだ。
どちらの国にも共通するように感じたのは、人は多様であるという大前提の認識とそれを受け止める社会の寛容さ、そして何と言ってもいざというときは国がしっかりと国民を守ってくれるという確信(信頼)であった。
幸福感の基礎には平等が不可欠ではないかと考えていた私はそれについて質問してみた。その回答ではブータンは厳格な年功序列があり、なかなか思い通りにならないようなところもあるということだった。(しかし考えてみるとそれはデンマークでも同じことで、個人主義は結局他人の自由を守らなければ成り立たない。思い通りの好き勝手ができるわけではないのだ。結果、生活の中でままならないことは多いのだろう。)このように必ずしも平等が根底にあるわけではないブータンの社会でそれでもなお、日本のような息苦しさを感じないようだというのは、どちらも国民が「安心している」ということに尽きるような気がした。そして面白いのはなぜ安心しているのかという点だ。デンマークは非常に高い税金を納めているが、そのおかげで教育を受けたり、老後や失業時、または病気の時などは無料や格安でサポートが受けられて何の心配もいらない。はっきりとした国の方向性と仕組みが一致している。それが国民を安心させており国に信頼を寄せる理由だと思う。一方ブータンでは平等ではない代わりに国王が国民を守るという明確なメッセージを発信しその庇護に対して絶対的な信頼を置いているようである。自分が守られるなら他人にも寛容になれるというわけだ。やはり安心して暮らせるということが一番の幸福感なのだなぁと思い知った。
印象に残った言葉としては、日本の息苦しさについて、不安だらけの将来がそれを招いている、ということだった。なにかカッコいい暮らしを手に入れるために本質的なコミュニケーションを犠牲にするというジレンマを抱えているというのである。本来日本人の持っている優しさを十分に発揮できない社会モデルになってしまっているのが本当にもったいないという意見だった。日本では安心安全と常に叫ばれているが、この言葉の本当の意味をもう一度噛み締めなければならない気になった。
何か息苦しさを感じる人は私を含めて少なくないかも知れない。それがデンマークやブータンの社会モデルと違うからという理由もいくらでも分析できるかもしれない。しかしどうも、それが本質ではなくて、不安を生み出す社会的な構造が日本に根付いているのかもしれないという気がしてきたのである。
経済を回さなければやっていけないという。それは経済にしか価値を見出さないからではなかろうか。富の再分配は経済でしか成し得ないのか。人と人とのつながりに価値があるとすれば、それだけで生きていけた人がかつてはいたのではなかろうか。今日はそんなことを考えさせられた一日だった。

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