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時間に追いかけてもらう

最近良く考えるのは、「時間に追われる」のと「時間を使う」の違いだ。
時間に追われるというのは、いつでもなにか締切のようなものが間近に迫っていて、その圧力を感じながら行動するということだ。私も若い頃しばらく会社に勤めて開発の仕事をしていたが、その頃は常に時間に追われていたように思う。後から後から際限なく締め切りが追いかけてくる。その一つひとつがそれぞれ類似しているようでいて全く異なる部分もある。つまり巨大なルーチンワークの歯車が轟音を立てて回っている中に、挟まれないように必死に走りつづけているような感覚である。この歯車の回転に順応してうまく、手際良く走れる人もいる。だが私にとっては(そして今となっては)同じようなことの繰り返し(多少異なるとはいえ)は少々辛かったのかもしれない。それでも大きな流れとしては慣れてきて手際が良くなったこともあるから、「時間に追われていた」と言えたのかどうか、ちょっと怪しい。しかし自分の意思とは関係なく締め切りはいつも大きな音を立ててやってくるわけで、やはり「追われていた」という表現は当てはまるだろう。
私がその中で掴んだものは、時間に追われないために「すぐやる」ということだった。職務の範囲内で自分にできることはどんどんやってゆく。それが自分に少しのゆとりをもたらしてくれるとわかったのだ。だいぶしばらく前のことだが、市役所などに「すぐやる課」というのができたとかいうニュースが出たことがあった。行政組織の対応をよくする(俊敏に対応する)ためだったと思うが、これは職員にとっても時間に追われないという効果があったかもしれない。
しかしこのことに少し違和感を感じているのは、「すぐやる」ことが「時間から逃げる」ことになっているかもしれないということだ。余裕ができたときにクリエイティブになれるかどうか、そこを見逃していたかもしれない。実際、時間に追われるのは「楽」だ。ゴール条件と締め切りが自動的に次から次へとやってくる。何も考えなくても自分のすべきことが永遠に湧いて出てくる。少し余裕が出来ようものなら、つかの間の休息に当てようと思う。ある意味、思考停止状態になってしまっている。時間がない、時間がないと言いながら、実は時間に追いかけてもらっているようだ。どうやって?その方法は簡単、スケジュールを埋めれば良い。自分は忙しい、やるべきことがたくさんあるのだ。次から次へと永遠に。それが時間に追いかけてもらうということだ.しかし当然余裕はなくなる、たとえ要領が良くなって、多少時間ができたところで、とても疲れている。「楽」な選択をしたはずなのに、疲労こんばい。なにかがおかしいようだ。
今まで時間に追われるという言葉の反対は「時間を追いかける」だと思っていたのだが、デンマークに行ってみてそれが間違っていると思うようになった。時間に追われるの反対は「時間を使う」だったのだ。自分で時間の使い道を決める。時間に追いかけてもらうという楽な選択をせずに、自分で考え時間を使う。それがどうも人生には必要なのかなと考えている。

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