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口数と体力との比例関係

口数と体力は比例するかも知れない、と今日はふと考えた。
喋るのにも体力は要るだろうから、それは当たり前だと思うのだが、全く体力がなさそうな人でも口達者であったり、アスリートでも無口な人はいる。ではなんでそんなことを考えたのかというと、コミュニケーションとしての口数ということに思いが及んだからだ。
私は高齢者の尊厳ある日常生活というものに興味を持っている。なぜなら私も高齢者の仲間入りを始めており、自分にできないことが増えた時に尊厳ある生活が送れるのかどうか心配だからだ。デンマークのフォルケホイスコーレに滞在して異国の文化の中に浸り、かなりの時間をかけて体験したことをまとめてゆくと、彼の国では自分で自分の生活を決めることが求められ、それが尊厳ある日常生活の基礎になっているようだった。そのためになんと言っても必要なことが「対話」である。自分の意思を伝え他人の意思を受け止めることである。これは口数の多少と関係してくるのだろうと思って、考え始めたのだった。
体力とは話すための力でもあり、もうひとつは話すための自信ではないか。十分な体力があり行動する自信があれば、比較的容易に自分の考え(特に自分の行動についての考え)を話すことができるだろう。しかし、できないことが増えて誰かの手を借りなければならなくなったら自分のしたいことを口に出すのははばかられるだろう。劣後感というか、絶望感というか、迷惑をかけるという意識も手伝って自分の口数は明らかに減ってくるだろう。
この自信というのは、人それぞれ基準があるだろう。自分が安心して発言できるという基準である。自分がいるだけで大丈夫という場合は自信を持ちやすくなり、どんな小さな行動でも発言し容易に実現できると考えるから、それだけ口数を増やしても安心だ。一方で何か高いレベルの結果が自信になると思っていると自信を持ちにくくなり、一生懸命行動してもなかなか実現できないと思えば、発言した自分が虚しくなるように思い、それならば口数を減らしてしまうだろうということだ。このように自信になる基準は人それぞれ、様々である。
デンマークで学んだことは、尊厳ある生活を送るためには自分自身のことを周りに発信する必要があるということだ。自分の生活を自分で決めてその中にある「できないこと」は人の手を借りてもしなければならないからだ。そこに見えてくるのは自分自身の存在が「自信の基準」であるということだ。自分が安心して発信するためにはなんの到達目標も達成基準も必要ない、自分が「居る」というそのことだけで自信になっているということだ。この安心して発信できるということは、反対側から見れば、安心して受け止められるということだ。何かに到達したのかとか何かを達成したのかという判断のない、ただありのままを受け止めてもらえるという安心感だ。
自分も時々口数が減ってくることを経験する。それは年齢からくる体力の衰えを内外から思い知らされるときに起きてるように思う。特に外からの言葉には悪気がないだけにこたえる。これが繰り返されていればいずれ誰とも話したくなくなるだろう。では何を望むかといえば、やはり「判断のない受け止め」なのである。しかしながら「察する」とは判断するということである。だから、だから難しい。

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