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自分の観察
もう何十年も前のことになる。小学校の夏休みの宿題に「~の観察」というのがあった。大抵は「朝顔の観察」とか「青虫の観察」といったものだったとうっすらと覚えている。観察とはなんだろう。葉っぱが出た、とか何センチに成長した、とか見たままを記録することを観察と思っていたのではないだろうか。それは今も続いているように思う。だがよくよく考えると、観察とはよく見ることだ。そしてよく見て対象物の状態を知ることだ。朝顔のつるが伸びて葉っぱが何枚になった。それは朝顔のどんな状態を示しているのだろうか。そこまで考えて初めて観察したことになる。朝顔の一生を見渡したときの現在のステージであるとか、外的要因に対してある反応を起こしているとか、だ。言葉にすると何やら味気ない気もするが、朝顔の生涯に一瞬寄り添うような感覚だ。
自分を観察するのはどうか。自分のことはよくわかっていると、割と軽く思っている。しかし観察の意味を念じながら自分を観察しようとすると、結構なパワーが必要なことがわかる。強く見る、力を入れて見ないと自分の状態を考えるところまで行かないのだ。
自分が疲れている、なぜ疲れたのか。今日は疲れるようなことをしたか思い巡らす。そして少し庭仕事を夢中にやってしまったことを思い出す。どこが疲れているか。腕がだるい。明日の仕事に影響しそうか。湿布をはるか。明日の状態を良好に持ってゆくためにできる限りの対策をとる。ここまで考えるには体力が要る。これは単身デンマークに滞在しだからこそ気づいたことだ。
状態を知ろうとして自分を観察する。そして最高の状態に持っていくための対策を立て行動する。ああたのしいことだ。