視点
自分がものを見る、その場所のことを視点という。例えばスマホで写真を撮る、その時にスマホの画面に映し出されるのが自分の視点というわけだ。大抵の場合自分は写真を撮りたいなと思った場所に立っていて、そのままカメラを構える。するとカメラの高さは地上から1.5メートルくらいで、被写体の大きさによるが、自然と見上げたり、見下ろしたりしながら写真を撮ることになる。あるときは見上げる、あるときは見下ろす、あるときは水平。それは自分の楽な姿勢によるものであり、それが意識しないでいるときの目線である。
この目線で写真を撮ると、例えば人ならスマホに近い頭が大きくなり、脚が小さくなる。ちょっと不恰好になってしまう。そういうときは自分が少し目線を下げ、スマホを少し下げて撮影すると、顔が小さくなり、体のバランスがとれてくる。視点を変えたら見え方が変わったというわけだ。
視点というのは普段はちょっと別の意味で使う。ものの見方についての自分の場所という使い方だ。だがこれも先ほどの話と同様、意識しないで自分が楽な姿勢をとっていることがいかに多いことか。いくら「視点を変えてみなさい」と言われても、なかなか一朝一夕に変えられるわけもない。そもそも自分の視点を意識していないし、楽なんだから仕方ない、と開き直ってしまいそうだ。しかし生活習慣病よろしく楽な姿勢ばかりをとっていると案の定足腰が弱ってきたり、運動神経がなまってきたりしてくるのだろう。気づかないうちに視点がどんどん固定化してくる。それでも楽な姿勢が取れる限り、それを変えようとはしない。悲しいことに。
ところで、私には楽な姿勢がとれない状況があった。3年前のデンマーク、フォルケホイスコーレ10ヶ月の留学だ。楽な日本語が使えない。楽な和食もなければ箸もない。楽な年功序列も敬語もない。楽な無言の忖度や我慢を誉められる風土もない。いわばエアコンの効いた部屋で安楽椅子に座っていたのから吹きさらしの岩の上に裸足で座らされたようなものであった。これで強制的に視点が大きく動かされたのである。いままで見えていたものが同じでも全く違うアングル、距離、光の当たり具合になったのだ。そうはいっても最初は岩の上に座ってバランスを取るのに精一杯で視点も何もなかったのだが、半年くらいたって少し慣れると周りを見回すゆとりが出てきて、その異なる見え方に驚いたり考えさせられたりするようになった。それがデンマーク留学だった。なんでそんな環境に飛び込んだのか。罰ゲームか?といえば、そうではない。例えば楽な姿勢に飽きたのかもしれない。無性に何かに体当たりしたくなったのかもしれない。ちょうどそんな時に年齢相応の人生への疑問が頭をもたげてきて体当たりの的になってくれたのかもしれない。とにかく厳しい環境に飛び込みたくなったのだ。例えるなら「荒業」が必要だと感じたのだ。
そして得られた視点というのは、私は普段意識しないところで楽な姿勢をとっているということだ。そこから見上げたり見下ろしたりしている。だから私が意識すべきことはしゃがんでみたり、離れてみたり、危険にならない程度に別の場所に移動してもう一度見ることだ。そのための足腰を鍛えておくことだ。なにしろ忙しい日常生活の中では視点は容易に固定される。日本の思いやりとか自己犠牲とか社会秩序を重んじる素晴らしい文化は内面的な部分を含んで独特のものだと思うが、表面的な行動という視点から見れば、欧米のような文化の異なる社会でも同じようなものではないか。良い人間関係を作り良いコミュニティの中に生活することが幸福であるという、それに貢献するための行動は実は内面は異なっていてもアウトプットは案外同じかもしれないのだ。
デンマークで気付かされた数多くのことは今なお私を考え続けさせている。ありがたい。