正解は不正解
先日ひょんなことから、言語学オリンピックというものがあると知った。その過去問題というのを眺めていて、正解とはなんだろうと考え込んでしまった。過去問題というのは、誰も知らないようなマイナーな言語で書かれた文とその日本語訳が20ほど並んでいる。それを読んで別の文を日本語に訳したり、日本語文をその言語に翻訳するというものだ。なんのヒントもない。例文と翻訳だけだ。
パズルのようにそれを解くのも大変面白い。言語にはきっと単数と複数、現在と過去、疑問形や男性形、女性形、そして助詞のような語形の変化があるだろうと想像しながら読み解くのは興味深い。しかし、それ以上に面白いと思ったのは例文の内容である。野生の豚を殺したのは誰か、とか、賢い歳をとった女性がその二人の男性の世話をした、とか、そういう内容なのだ.これはその言語を使っている人々の日常なんだろうなあとそういった光景を思い浮かべずにはいられなかった。決して「彼は寝坊したので10時ちょうどの約束に20分遅れてきた」というようなものではないのである。例文には誰だかわからない「彼」はおらす、なんだかわからない「約束」もないのだった。そこには「具体」しかなかった。それがその言語の使われる社会の日常だからだろう。言葉は日常を表すことが第一義である。以前未開の人たちにバナナ2個とりんご3個で合わせて何個か尋ねても答えられないと聞いたことがある。正解は5個だろうか。それを正解とする前に日常の中にバナナとリンゴを合わせて数える「意味」を省いてしまっていないだろうか。これが抽象化というものだ。意味を省いて「概念」というものにしてゆく。3といえば、リンゴだろうと桃だろうと関係ない。概念である。「木」といえば、桜だろうが、松だろうが「木」である。しかし、3も木も具体的に存在しない。存在するのはリンゴ3個であり、桜の木である。
どちらが正解だろう。それは正解を決める人によると思う。正解とは誰かが決めたものだ。神ではない。どこかの決して完全ではない「誰か」が何かの目的をもって決めたものだ。だから正解は必ずある、とも言えるし、正解は無限にあるとも言える。ある正解はある不正解である。ある不正解はある正解である。
デンマークでは答えのない問いを多く投げかけられた。例えば民主主義とは何か。正解を言えるだろうか。正解を答えることだけを教育されてきたら、これは困ってしまうだろう。どうすれば良いのか。それを考えさせてくれたのもデンマークであった。