コミュニケーション力
昨今コミュニケーション力という言葉がよく耳に入る。コミュニケーションとは、自分の意思や気持ちを相手に伝えることであるから、集団で社会生活を営む人間にとって絶対的に必要な事柄であるし、また絶対的に生じる事柄でもある。コミュニケーションなくして人間の集団社会は成り立たないだろう。そのくらい基本的な社会の要素であると思っている。私は「一匹狼」という言葉にほのかに憧れるところがあるが、それは逃れることのできない煩わしいコミュニケーションから解放されて自由気ままに我が道を行くことができる、それが認められているという意味で憧れるのである。ということは現実はその逆で、毎日毎日煩わしくてもコミュニケーションを欠かすことはできず、それらは必要なことであり、それらに付随するいろいろな制約、しがらみに縛られながら暮らしているということである。
このように人間社会には欠かすことのできないコミュニケーションの「力」とは何なのだろう。自分の意思を相手にわからせる圧力のようなものなのだろうか。それとも、日頃からとりとめのない雑談などを重ねておいて、自分の考えを察してくれるようにしておく力であろうか。はたまた自分の考えを相手の言葉で話す力であろうか。いずれにせよ、いずれのどれでもないにせよ、現代人には必須の能力であるかの如くとりわけ声高く言われているように感じる。そして本当にそうだろうかとちょっと疑問にも感じる。というのは、別に現代人でなくても必須だからである。コミュニケーションがなくなっているというわけではないだろう。社会が存続しているのだから。ではなぜだろうか。
コミュニケーションは行動である。デンマークで学んだ「尊厳ある日常生活」を送るためには、行動は自己決定であり、その行動に責任を負う機会が与えられていることであった。それはなぜかというと自分の人生の時間に意味をつけるためであった。とすると、コミュニケーション力というならそれは一種の行動力と言えるのかもしれない。コミュニケーション自体が以前ほど行動力を必要としなくなっているのか。そのためにその行動に負う責任も人生の時間への意味づけも小さくなってしまったということか。
情報技術の進歩で確かに意思の伝達は格段に早く遠く大量になっている。これを「楽になった」と捉えると、まさに行動力が要らなくなった、人生の時間への意味づけが小さくなったとなりかねない。そこを「コミュニケーション力」と叫びながら警鐘を鳴らしているのだろうか。
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