言語化
今日はとあるNPOのニュースレターを読んでいて、なるほどなと思ったことがあった。それは世代間の比較に関係したものだったが、現代の20歳前後の若者の世代を「Z世代」というそうだ。私はその二つ前の「新人類」の走りにあたるようだが、とっくに旧人類になっている。その間の世代は「ゆとり世代」というそうだ。そうやってひとくくりにして比較するというのはある意味滑稽なことだが、時代の流れに沿って考えると少し腑に落ちるところもあった。それが「言語化」である。
私はデンマークで「言葉にすること」が重要なことだと何度も思い知らされた。日本ではチームで何かを実行するときに「清濁併せ呑む」という言葉にあるように含み、懐の深さ、何も言わなくても察している、といった心情的な側面を伴った行動がある。これは役割の間の空白を埋めるのに役立つが、「言わなくても理解せよ」という非言語的な部分があるために、自分の役割以外にも責任を感じる範囲を広げざるを得ない。また、それが本当に責任範囲をカバーしているのかどうか常に不安を抱くことになる。そこには「言葉にすると、何かが漏れる」という不完全さを嫌っているところがあるのかも知れないし、そのおかげできめ細かい物作りができたともいえる。
私はデンマークで経験した言語化というものが多様性に起因しているのではないかと思っている。人は多様であり心情的に一致しないところも多々ある。それを前提にすれば、何かが漏れたとしても言葉で表現してそれに沿ってきっちりと行動することが「確実だ」。もし何か漏れていたらそれを言語化して対応を決めれば良いということだ。
そこで、話が戻るが、Z世代のことである。この世代の人たちは生まれた時からインターネットがあり、就学の時期にはSNSという手段が普及していた。このSNSはいとも簡単に心情を言語化する手段だ。この手段がごく自然に今までの非言語化した習慣による不安やストレスを言語化するようになり、それが現代の「生きづらさ」として認識されるようになったというのだ。うーん、なるほど。
日本人は何もないところに何かを感じる、行間を読む、間をとる、侘び寂び、という「特殊能力」を鍛えてきたように思う。言語化は不十分な道具として捉えられてきたのかも知れない。しかし多様化のなかで言語化は必要であり、SNSなどの手段と相まって今は言語化の時代になっているのだろう。ところで車が走るためにはアクセルとブレーキが必要であるという恩師の言葉がある。(安全に)走る=走る+止まる という意味だ。ちゃんと走るにはアクセルだけではいけないということだ。言語化ということも、おそらく言語にならない部分を含んだ、ちゃんとした言語化というものを意識すべきなのだろう。