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貢献したいと思うこと

私はデンマークに滞在中に時間を見つけては散歩をした。それは、学校の中にいて学生たちと常に話していることはほとんど不可能であったからだ。一人で自分の考えをまとめる貴重な時間でもあった。写真の道は大好きな散歩ルートの1つで、この直線を歩いている時によくいろいろな気づきやひらめきを得ることができた。木々はたいてい風に揺られていてそのざわめきがなにか語りかけてくれているようにも聞こえたものだ。日常の中で言葉がほとんどわからないという状況では木々のざわめきさえ言葉になる、というすごい経験だった。

さて、それとは別に帰国してからよくわかる日本語の生活に戻りデンマークでの経験をあれこれ思い返しているとその時には考えつかなかったようなことも日本語の論理として思い当たることが多々あることを経験している。今日のテーマの貢献するということもその1つだ。

私は30年ほど前に計画的に開発された住宅街に住んでいる。住民はさまざまなところから引っ越してきたので価値観も習慣もさまざまである。しばらくして自治会が組織され、住民の生活の向上を目指していろいろ活動してきているが、中心となるメンバーはごく一部の有志という構図になっている。そして高齢化である。ますます人材が不足してきている。私は最初の頃は仕事仕事で地域に貢献する気持ちがなかった。しかし20年ほど前に思い切って地域社会の仕事に舵を切り、それまでと対極の気持ちに移行していった。だから、地域に貢献する気持ちのない気持ち、なぜ地域に貢献しないのかという気持ちの両方を経験している。

この2つの気持ちは相反するものでどうしようもないという感触をずっと持っていた。しかし、なぜか今日ふと、自然に1つになる感覚を味わうことができた。そのきっかけは近所の知り合いが訪ねてきたことだった。

その人はここ数年病気の奥さんを介助しながら一切の家事を引き受けて生活している。地域への貢献にも前向きで可能な限り時間を作って参加してくれていた。今日の来訪は奥さんが怪我をされてしばらくは地域のことへ参加できなくなったということを話しにきてくれたのだった。

以前の私なら、その話を聞いて、もちろん理解したろう。そしてしょうがないよね、と言い、頑張ってくださいね。と言っただろう。内心少しだけ人手が減るのをおしみながら。ところが今日はそのように思わなかった。デンマークの個人主義をいろいろと考えていたその結果かもしれない。私はわかりました、奥さんを応援して二人で頑張ろうと決めたのですね、応援しますよ。でもお顔がちょっと疲れているように見えます。近くに地域包括支援センターがあってなんでも悩みは聞いてくれるそうです。またもし何か話をしたくなったらいつでもうちに来てくださいね。と答えたのだ。

この変化についてまた後から考えた。これがデンマークでいう平等感か、あなたも自分もよくやっている、ということか、と。集団のために自分を抑えることを美徳とするのはある意味で外圧である。その圧に耐えられない状況になった時に残された自分の内圧(内発)で安心して暮らすには周りがそれを受け止め応援することではなかろうか。そしてその安心が再び地域社会への貢献の可能性を生むように感じた。

昔自分は地域への貢献を考えなかった。それは地域が自分を応援してくれると感じていなかったからだと気づいた。応援するとは単に声をかけるだけでもできる。話を聞いて受け止めるだけでもできる。そういうものだ。地域への貢献を住民にすすめようとしていたこの20年には実はその視点が抜けていた。いかにして参加させるかということに眼がいっていた。高齢化、多様化がすすみ、個人的には不安な要素が増えている。互いに応援するということが地域社会への貢献心を生むということが今日は非常にすっと入ってきたのだった。

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