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[身辺雑記]渋谷

長い間訪れることのなかったこの街を歩いて肉の臭いと音が消えているのに気がついた。肉というのは人の体のことで肉体といったほうがいいかもしれない。この街には生身(なまみ)の体を曝しながら生きている人たちが大勢いた。たとえば公演にテントを張って野宿する人たち、生(なま)の体を客に見せることで生計を立てる人たち、公道に座りこんで身過ぎをする人たち、背中にスピーカーを背負って神の国の到来を告げていた説教師たち。これらの人々はどこにいってしまったのだろう。
かわって多く見かけるのが外国からの観光者とおぼしい人々や、なにを職業にしているのかわからないが携帯でどこのことばか分からないことばで話している外国人に見える人たち。これらの人たちの肉体は確かに独特の体臭を放ちかれらの言葉は街騒に紛れながらそこここに漂っている。しかしそれは肉体の絶えた街、いや生の肉体が排除された街の印象を強めこそすれ、僕のなかの以前の街の姿を思い出すよすがにはならない。
だれがなぜいつこのように街を変えたのか、僕は知らない。だが、これが「安全」で「きれい」で「最先端の」街だと、この街に住む人、通う人、遊ぶ人が、何も知らない外国人旅行者が驚くように、考えているなら、いちど自分たちの感官を疑ってみるといいと思う。「安全」は人と人の間の緊張・無関心と表裏一体であり一度裏表が逆転すればすぐに争いに替わる状態をさしている。「清潔さ」はさまざまな種類の「不潔な者」を追い出してかれらの滞留を許さないことで維持されている。「最先端」は人々の視覚を鉱物性の構築物と通信機器の画面に浮かぶ記号に集中させることで印象づけられているだけのように思える。
街とともに人が大きく変わったのだろう。いや人が変わったからこのような街をつくることの合意がうまれて、これだけの規模の変化がわずか二十年程のあいだに起こったのに違いない。第二次大戦直後からのこの街の変化の詳細を僕は知らないが、おそらくこの街はこの国のなかでも恒常的な変化という点では最たる場所ではないかと思う。そしてそれがいま行きつくところまできて、ガラス張りの高層建築に映る私たちは透明な肉と骨のなかで、脳と神経系と眼球だけが浮き上がる姿になっているのではないか、と思いながら僕は街を後にした。

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