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ユイちゃんが泣くとき

 先月から頻繁に、ニュースでユイちゃんの顔写真が流れている。黒目がちで大きな垂れた瞳。五十歳になった今でも、幼い頃から変わらない。どのチャンネル、情報番組でもそのニュースばかり報道している。ユイちゃんは幼なじみである。中学まで同じ学校に通った。高校時代には何度か図書館で出会ったことがある。それから三十年後の今、ユイちゃんが世間を騒がせるような事件を起こしたとしても、わたしにはちっとも不思議ではない。

 わたしはしっかりと記憶している。小学五年生のときに抱(いだ)いたユイちゃんへの不信感を。


 四月下旬。新学年になりクラスが変わり、新しいクラスメイトにもなれたきたのに、もうすぐゴールデンウィークに入るという、気持ちの変化が慌ただしい季節。よく晴れた日。

 小学校から帰ったわたしは、母と向かい合い、台所でクッキーを食べていた。ティーカップには濃い紅茶。スーパーの奉仕品の、渋い、渋いダージリン。まだ湯気が出ている。猫舌のわたしは口を付けることができずにいる。

 玄関のチャイムが鳴る。

「はーい」

 母は紅茶のカップから口を離し、少し大きな高い声を出して去って行く。

 つまんないナ。誰が来たんだろう? なんの用だろう?

 母はすぐに戻って来た。

 案外早かったな。回覧板だったのかな?

「チリ」

 母は座りながら言う。暗い顔をしている。声は低い。普段以上に深刻そうである。少し湯気が薄くなり始めた紅茶を一口すすってから、続ける。

「ユイちゃんのお父さんが入院してたのは知ってるよね? 今朝亡くなったんだって。だからユイちゃんのこと、助けてあげてね」

「ユイちゃんのお父さんが!?」

 混乱する。ユイちゃんの家族に関係する面影が、まるでアルバムのスライドショーでも見るかのように、ランダムに、それでも至極鮮明に、脳裡に浮かび上がって来る。

 ユイちゃんのお父さんの大きな垂れた瞳。低く明るい声。

 おじちゃんとそっくりなユイちゃんの目。

 ピアノの先生に誉められて、得意げに顎を上げるユイちゃん。

 おじちゃんとは逆に、いつも怒ったようなキツい目をしているおばちゃんの顔……。

「助けるってどうしたらいいの?」

 小学五年生のわたし。知っている人が亡くなったというのは初めての体験だったのだ。

「ユイちゃんが泣いたら、そっと泣かせてあげて。ただ傍にいてあげるだけでもいいから。無理に元気にさせるようにする必要はないからね。いっぱい泣かせてあげるのよ」

 母のことばの最後のほうは、母の鼻が詰まっていた。エプロンのポケットからタオルハンカチを取り出して目に当てた。

 そんな様子を見ていたら、わたしも悲しくなって来た。おじちゃんは体が弱いんだと母は言っていた。よく入院していたから、何度も会ったことがあるわけじゃない。会社勤めもしてたから、休みの日、たまにユイちゃんの家へ行ったときに、

「いらっしゃい」

 とやさしい声をかけてもらうことがあっただけだ。

 もうユイちゃんちへ行っても、あのおじちゃんの顔を見ることはできないんだなあ……。

 わたしは母に抱きついて泣いた。

 そうして、わたしでもこんなに悲しいのに、ユイちゃんはどんな気持ちでいるのか、想像ができなかった。


 二階の自分の部屋で宿題をする。ちっとも集中できない。宿題は捗らない。

 チャイムが鳴る。わたしは一階の物音に聞き耳を立てる。

 母が「はーい」と応じ、玄関へ走るスリッパの足音。「まあ!」驚いているみたいだ。

 そして、

「チリィ! ユイちゃんが遊びに来たわよぉ」

 階段の下から大きな声で言う。

 わたしは戸惑う。どんなふうに接したらいいんだろう?

 悩みながら玄関へ向かう。

「チリちゃん、バドミントンしようよ」

 ユイちゃんが普段どおりの様子なので、わたしはますます困ってしまう。

 わたしは驚いた顔で母を見上げる。母は首をかしげているが、

「遊んで来なさい」

 と、静かな暗い声で言った。

 わたしは、もし自分のお父さんが死んだら? ということを、仮定だとしても想像するのさえいやだった。徹底的に避けていた。


 家の前の幅五メートルの道路。当時は自動車の行き来は殆どなかった。ユイちゃんは先に道路に出て、バドミントンのラケットで膝を叩いている。

 わたしはユイちゃんの傍へ行けなくて、「ユイちゃん」と言った。自分の声のあまりの小ささに、自分でびっくりした。「悲しかったら泣いてもいいんだよ」

 思わず涙が出た。わたしはひっくひっくと肩を上げ下げして泣きながら、ユイちゃんを見る。

「チリちゃんどうしたの?」ユイちゃんは明るく大きな声で言う。瞳を大きく見開いている。「悲しい? 泣く? なんで?」

 ユイちゃんは笑っている。

「無理しなくていいんだよ」

 わたしは苦しくなってくる。

「チリちゃんヘンだよ。どうしてわたしが泣かないといけないの?」

「だっておじちゃんが……」

「ああそのこと。いなくなっただけじゃない」

「さびしくないの?」

「うん。全然さびしくない」

「おばちゃんやお兄ちゃんたちがいるから?」

「ううん。なんでみんなが泣くのかがよくわかんないの」……。


 中学時代にはこんなこともあった。

 ユイちゃんは学年集会で先生からひどい暴力を受けた。今なら当然マスコミ沙汰、ネットも沸騰するだろう。体育館での学年集会。ユイちゃんは生徒指導の男性教諭に勘違いをされた。ほかの教師が話をしているのに、ユイちゃんは笑っていると誤解されたのである。

 生徒指導の教師はユイちゃんを殴った。何度も殴った。ユイちゃんは体育館の前方にいたと思う。いわゆる体育座りをしていた。ユイちゃんは何度か殴られて、床へ寝転がる姿勢になった。教師の暴力はそれでも止まらない。教師は床に伸びたユイちゃんを蹴り始める。それを止めに入る教師もいない。わたしたち生徒は眺めることしかできない。生徒指導の教師はユイちゃんを蹴り続け、体育館の外へ追い出した。

 学年集会が終わったあと、ユイちゃんのいる教室へ行った。クラスメイトは男女問わず全員が、ユイちゃんの席を取り囲んでいた。生徒たちの黒い制服の隙間から、わたしは少しだけユイちゃんの表情を覗くことができた。

 何ごともなかったかのように、やっぱり口元には微笑みを浮かべていた。大きな黒い瞳の奥は、いつものとおり、少しも笑っていなかった。悲しさや悔しさすら宿っていなかった。


 一度だけ、ユイちゃんのお母さんを通してうちの母から、ユイちゃんが泣いた話を聞いたことがある。

 ユイちゃんは地元では有名な私立大学へ進学した。彼女は外交官へなりたかったのに、その試験に落ちた。そのときにだけ、ユイちゃんは涙を流し、ユイちゃんのお母さんへ「死にたい」と嘆いたそうである。

 しかしそのあとあまり時間が経たないうちに、ユイちゃんは大学で培った英語力を活かし、外資系の企業への就職先を決めた。わたしたちの世代、就職氷河期世代だった。四年制大学を出てすぐ、今でいうブラック企業に就職してしまったわたしとは、全く正反対である。


 大学を出てからでさえもう三十年。

 ユイちゃんは、恐らく日本中で報道されている事件を起こした。

 今ユイちゃんは横浜に住んでいる。二年前に離婚して親権は元夫に取られた。

 先月、一月。ユイちゃん暮らすマンションから異臭騒ぎが起きた。警察はそのマンションの全ての部屋へ家宅捜索を行った。もちろんユイちゃんの部屋へも警官が訪れた。

 立ち会ったユイちゃんは表情を一つも変えなかったと報道されている。一月の弱い陽が明るく照らす十畳ほどのリビング。フローリングの床。付けっ放しのテレビからは午後の情報番組が小さな音で流れている。ベージュ色のソファ。「大きな人形が三つ並べられていると思った」立ち入った警官のことばである。

 五十代男性と、小学生の女の子二人。三人の腐乱しかけた死体がソファに座っていた。元夫と二人の娘であった。まるで一家団欒。三人が並んでテレビを見ているかのように。三人とも、首には縄のようなもので締められた痕が残っていたそうである。

「あなたが殺したんですか?」

 警官はその場でユイちゃんに尋ねた。

「そうですけど何か」

 ユイちゃんは平然と答えたそうである……。


 これまで色んな凶悪事件のニュースが流れた。「責任能力」「精神鑑定」。そんな単語にもすっかり馴染みができた。

 ユイちゃんに責任能力はないだろう。子どもの頃からユイちゃんには、何かが大きく欠けていた。人としてとても大切な何かが。元夫とは恋愛結婚だったと報道されているが、あのユイちゃんが激しい恋に落ちる様子を想像することもできない。と言って金銭目当てというのもしっくりこない。殺害理由もわからない、黙秘を続けているそうである。

 ただ。殺人を行うときにもユイちゃんは、口元にだけ微笑みを浮かべ、瞳にはなんの感情も現さず、淡々と首を絞めたのだろう。それだけは簡単に想像ができる。

 ユイちゃんのお母さんは何年か前に亡くなったと母から聞いた。その葬儀でもユイちゃんは涙を見せなかったそうである。

 だから今、ユイちゃんが世間を騒がせるような事件を起こしたとしても、わたしにはちっとも不思議ではないのである。


四百字詰め原稿用紙 十一枚 了

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