はじめまして、ちゃーりーです。
はじめに
僕のnoteでは、主にプログラミング、海外生活、語学に関して書いていこうと思っています。今回の記事では、筆者の自己紹介という内容で書かせていただきました。最後まで読んでいただければ嬉しいです。
Who are you?
こんにちは、はじめまして(の人が多いと思います)。20代、生まれは関西、育ちは西日本のチャーリーといいます。語学大好き人間で、レベルは異なりますが、英語、ドイツ語、キルギス語が話せます。今はタガログ語の勉強をしていて、将来の夢は10か国語話せるようになることです。趣味はウクレレです。2020年6月1日より新たにプログラミングの勉強をし始めました。
よろしくお願いします。
大学生になるまで
上記の通り、生まれたのは関西なのですが、父の転勤の都合で四国、九州、中国、関西の順番で転々と引っ越しを繰り返し、各地方独特のルールにもまれながら育ちました。小学校3つ、中学校2つ、高校2つ(自己都合)を経験し、自分で言うのもなんなんですが、結構つらいことも経験しながら子ども時代を過ごしました。
中学1年生の時に英語と出会い、当時の先生の教え方が上手かったおかげで、英語に興味を持ち、そこから自分で勉強するようになりました。気づいたころには英語が得意科目になっていました。この頃から、将来海外に行ってみたいという思いが芽生え始めました。
思っていたらその通りになるもので、高校時代に地元の国際交流のプログラムでハワイに行き、はじめてのホームステイ、はじめての生英語を経験しました。帰国後はハワイの大学に行きたいと思うくらい、ドはまりしてしまいました。
英語がもっと話したいと思うようになり、願い続けた結果、高校でアメリカに1年間に留学できることになり、高3の夏、他のみんなが受験勉強をしている中僕はアメリカへと渡っていきました。アメリカでの経験はここで書くととても長くなるので、またの機会にしようと思いますが、ここでの経験が今の僕の基盤を作ったことは間違いありません。
国際協力が夢
大学時代も語学の熱は冷めず、はじめて学ぶドイツ語の魅力に引き寄せられるがまま、そのままドイツに留学することになりました。ドイツでは、教育とドイツ語を主に勉強していました。かなり忘れましたが、今でも日常会話程度ならできます。
帰国後、将来何をしようかと考えていたところ、たまたま大学で海外ボランティアの説明会をしていて、興味を持ち、卒業後は参加したいと思うようになりました。
今まで留学を2度も経験し、この経験を活かし、他者に還元したいと思い、大学4回生の春、海外ボランティアに応募しました。
結果は、、、、不合格!自分では何かできると思っていたのがあまく、技術力・経験不足を痛感する出来事でした。海外で活かせる経験が必要だと思い、興味がある英語教育の現場に入って働くことを決心しました。
これで本当にいいのか?
正直に言うと、不合格というのは相当ショックでした。完全に海外ボランティアを僕のキャリアの始点と考えていたため、何をすればいいのかわからなくなりました。
教育には興味があったものの、教育現場で働くことが不安でした。でも、やってみないとわからないと思い、ようやく決断を下しました。
幸いなことに、採用試験に合格し、某県の高校で働かせてもらうことになりました。
地獄の三年間
教育現場は予想をはるかに超えるほど、厳しい環境でした。月の休みは数日間、1日の平均労働時間は12時間越え。疲れとストレスが溜まりに溜まり、「自分はここで何をしているのだろう」と自問自答を繰り返す日々が続いていました。教えることは好きだったのですが、その準備すらも十分にできないほど忙殺され、自分の存在意義も見失い始めていました。
自分は何のために生きているのか
それまで順調に人生を謳歌していた僕は、この時初めての挫折を味わいました。この問いを繰り返すほど、当時は追い込まれていたと思います。
それでも「3年間は何が何でも続ける!」と考えていたため、何とか堪えて働き続けました。
救いの手
そんな時陰で支えてくれたのは当時の彼女(現在の妻)でした。彼女はフィリピン出身、日本在住なのですが、フィリピンから日本に来た時から苦しい経験をたくさんしてきていたので、僕は彼女に弱いところを見せずに、自分がどんなに追い込まれていても職場のことはあまり話さないでおこうと思っていました。
仕事は慣れないものの、まだましになったかなと思っていた3年目の秋。
ある日、先輩にひどく叱られ、何とかつなぎとめていた糸が切れた瞬間がありました。叱られるのは僕が悪いからなのですが、自分の精神状態が崩壊しているときに起こるとさらに崩壊します。僕はこんな状態でした。
その夜、我慢できずに離れて住む彼女のもとへ向かいました。もう限界でした。彼女の前で泣き崩れた僕は、「やばい、こんな弱い姿を見せてしまった」と思いながら、震えた声でこう尋ねました。
俺本当は弱い人間やねん。今までそれを隠してきてん。こんな弱い人間でも大丈夫?
彼女はシンプルにこう言ってくれました。
大丈夫よ。言ってくれてありがとう。
その時初めて、自分をさらけ出してもいいんだと気づき、すごく安心したのを今でも覚えています。これが僕が彼女と絶対に結婚しようと思った瞬間でした。そして、次の行動を起こそうと決めた瞬間でもありました。
前進して、また足踏み
海外ボランティアに参加することをあきらめていなかった僕は、職場の同僚に内緒で、再応募していました。それに受かり、中央アジアにあるキルギスという国に派遣されることが決まりました。
現地では学校に配属され、英語を教えていました。活動が始まって、少しずつ現地の生活に慣れてきたある日、突然のお知らせが入ります。現地で派遣されていたボランティアたちが一斉に集まるイベントで首都に行った時のことです。
コロナの影響で緊急帰国が決まりました。今回のイベントは中止です。明日配属地に帰り、帰国の準備をしてください。
そう知らされた僕たちは、気持ちの整理ができないまま、職場の同僚や生徒に何も言うことができないまま帰国しました。2020年3月のことです。
もんもん期からの脱却
3月に帰国し、それから状況はひどくなるばかり。再派遣される目途はなく、それでも何かやらないといけないと思い、語学勉強や海外で英語を教えるための資格を取る等、そんな日々を過ごしていました。
キルギスで自分がやった活動を振り返る中で、決定的に足りないあることに気づきました。
専門的なスキルが足りない
もちろん、英語教育も専門的だとは思いますが、英語はどこまでいっても ツールだと思い、なにか物足りなさをか感じていました。開発途上国で活動するにも、突出したスキルが必要だと思うようになりました。そして、何がいいのか探し続けていたところ、あるものを見つけたのです。
プログラミングサークル「プロサー」
ある日、ツイッターを見ていたところ、こんな投稿を発見しました。
「プロサー12期生の募集を開始します。」
簡単に言うとプロサーとはプログラミングを学ぶためのオンライン学校のようなものです。
運営者のむらっしゅさんは、どういうわけかキルギスにいたときにフォローしており、プロサーの噂がツイッター上に流れていました。しかしその情報はほとんど公開されていない状態です。しかしながら僕はこう思いました。
これだ!
プログラミングが何かもわからず応募したわけですが、直感的にこれが僕の探していたものだと思いました。晴れて審査にも合格し、2012年6月よりプログラミング学習を開始しました。
プログラミングのその先
今はプロサーにてプログラミングを毎日勉強しています。そう簡単には事は進みませんが、僕にはやり切る覚悟があります。わからなかったら、わかるまでやり切る覚悟があります。そのくらい本気です。
プログラミング技術を習得して一体何がしたいのか?
①東京でエンジニアに転職
②フリーランスになり、月収100万稼げるようになる。(本当はしっかりと技術をつけるのが目的なのですが、具体的な技術力の判断がわからないのでお金を目安にしています)
③開発途上国でIT分野における技術・教育支援
あくまでも最終目的は、③のIT分野における国際協力なので、そこまでたどり着くために、日本で修業します!
終わりに
最後まで記事を読んでくださりありがとうございました!ここまでたどり着くのに紆余曲折がありましたが、これから新たな目標に向かって一歩一歩進んでいければ思います。読者の皆様がどんな仕事(勉強)をされているかわかりませんが、皆様がこれから目標とする人生に向かって努力されていること応援するとともに、目標を達成することを心から願っています。僕が目標に向かって取り組んでいる姿が少しでも皆様の勇気となれば幸いです。
主にプログラミング学習に関してですが、ツイッターでも学習過程等をつぶやいています。よければ一度見に来て下さるとうれしいです!