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世界中の空をぎゅっとすると虹になる
いつも夕暮れの空を見るたびに、高3の秋の日と美術部の恩師の話を思い出す。
美術部に所属していた当時、自分はAO入試で希望大学に受かり、腕を落とさないために放課後は美術室で友人をモデルにデッサンを毎日していた。
その日も描き終えるにキリのいい時間になったのもあって、モデルをしてくれた友人と顧問の美術教師と他愛もないおしゃべりをしながら片づけを済ませ、みんなで美術室を出た。
すると、落ちついたオレンジの西日が廊下一面に射しており、美術室のある4階の校舎から見えた夕焼けのグラデーションがあまりにも綺麗だった。
教室を一緒に出た顧問の美術教師と友人とで、しばらく見惚れていたほどだ。
空がオレンジ色から薄闇色に染まっていく様子に、なんだか虹色に見えるような気もして、
それをぽつりと言ったら、ウンチク好きの顧問が嬉しそうに、
「スペクトルって言って、光の屈折で虹が見えるのと同じらしいぞ」と言った。
はたしてそれが科学的にちゃんと合っているかは分からないけれど、子供だった私と友人は「そうなんだ!」と感心した。
実際に光彩(虹彩)のようなグラデーションになっていて、顧問曰く「これをギュッと縮めると虹色になる」と言った。
え、じゃあそれって今ここは夕暮れの変化でこうなっているけれど、
どこかの国では朝だったり、昼だったり、夜や夜明けのところだったりして、空の変化やグラデーションはずっと続いている。
っていうことは、世界中の空をギュッとしたらきっと虹色で、それでなくても地球の空全体はゆるやかな虹色のグラデーションが、全てにずっと続いているみたいってことみたいだ。
思っているだけで自分の中に閉じ込めてると、何だか勿体ない考えのような気がして言葉にした。
すると顧問はちょっと驚いて
「たしかにそうだな!のどかの発想はやっぱり面白いな!そういう気持ちを持った奴が美大受験に臨んでくれて無事に受かって、美術畑の先輩としてすごく嬉しい」
そう言ってくれたのを今でもよく憶えている。
そして当時の情景を忘れたくなくて、すぐに短編の文章の中に落とし込んだりもした。
夕陽で空は眩しくて、遠くの方に浮かぶ大きな入道雲の輪郭が金色の線で縁取りしたように綺麗だった。こういう西洋画をどこかで見たような気がする。
薄い空色に橙が滲むように混じり合って、それがうっすらとラベンダー色になりかけている。
蝉の鳴き声も、グラウンドを走る運動部の掛け声も遠くに響いて、ここだけがシンと別世界のように存在している気がした。
何て言ったらいいかわからないけど、でもどこか懐かしくて落ち着いて安心する。
この時、この瞬間って一生に一度で、もう戻れないからこそ、大人になった時のためにずっと忘れたくないと強く感じていた。
夕日のオレンジに染まりながら「私はこのシーンを青春として、この先の人生で幾度も幾度も反芻するんだろうなぁ」とも。もちろんその通りになっているのだから、自分の人生の中でこういう思い出が作れて良かったとも思った。
それともう一つ、美術の先生で忘れられない思い出がある。
中学の臨時美術教師の若い女性の先生は、本当に素敵な方だった。
先生は生徒の机の間を縫うように歩き回っては、褒めたり、ちょっとこうするともっと素敵だよ、などワンポイントを絶妙に入れていた。
年齢的にも私たちと10才くらい上のお姉さんという感じだったので、みんなも素直に聞いて、そのお姉さん先生に褒めてもらいたくて和気あいあいとした授業だったのを覚えている。
そんな時に先生は私の横に立ち止まり、絵のアイデアを褒めてくれつつパレットを見てはこんな言葉を残してくれた。
「のどか、全部の色をちゃんと溶いてあげて。みんなせっかく綺麗な色を出してあげたのに、ちゃんと溶いてあげないとかわいそうだよ」
私は絵の具を使う時、とりあえず必要そうな色を一通り出しては溶かずにそのままにしてしまう癖があった。
それまでは絵具も、色も、ただの道具だと思っていた私にとって、「道具を大事にする」「色を好きになる」という基本的な事に気付かされた気がした。
せっかく出してあげた色を固まりのままではなく、ちゃんと水に溶いて使える仲間にしてあげる。
物をちゃんと正しく使ってあげることの大事さ。
たしかに、絵具って使われる為にあれだけの沢山の色があるわけで、せっかく出しても溶いてあげないって、絵具に対して不遜を働いてしまったな~と中学1年生ながらに反省した。
だけどそれ以上に心に響いたのが『言い方』だった。
なんてやわらかな言葉の使い方をする人なんだろうと私は驚いた。
当時は親と教師以外の「大人」と会話することなんてめったにいないし、
先生も確かに教師ではあるのだけれど「自分にとって身近な大人のお姉さん」という印象が強かったから、説教ぶらない言い方に「えっ、大人なのにそういう風に言ってくれるの?」と新鮮さでいっぱいだった。
そして、こういう大人になっていけるのなら、大人になるのも楽しそうだなと思った気がする。
ちなみに今こうして書きながら、今の自分は果たしてそんな風にやわらかな物言いをしているか?と思うと、素直に頷けない自分がいる。
いかん、いかん。
どうせ年を取るならばその時の気持ちを忘れないように、物言いの柔らかい人間になりたい。
自分で自分に期待をかけられる生き方って、なんかいいしね。
そんな大きな出来事でもないし、なんてことのない事。それも未だに心に残って覚えている。
ありきたりになるけど、何年、何十年と時間が経っても色あせることのない出来事ってこういうことなのかもしれない。
だって本当に夕焼けを見るたびにいつも思い出してしまうのだから。
そのたびに、心の奥がじんわりと温もりをもち、ほんの少し幸福な余韻を味わわせてもらっている。大人になってもこういう気持ちでいれることを幸せに思う。
まとまりもオチもないだけど、何だか忘れたくない思い出を残したくなったので書き綴り。
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