永遠の3歳児なれ
今年初めてカブトムシをとりに行ったら交尾の最中だったので採らずにそっとそのままにしてきた優しい男春日です‼︎
♯ご飯中は良いけど交尾中だけはあかん
中途半端って悪いこと?
私事ですがボクは恐ろしく中途半端にすることが多い。
というより自分の中で8割くらいで全て完結している気持ちになっているのかもしれない。
ボクの周りの方、おそらく多大なるご迷惑をおかけしていると思います。
♯反省しています
さて本題です。ここ最近自分の子どもを見ていると学びしかないです。
同時にその凄さを潰してしまうであろう自分の言動にゲンナリする。
子どもの好きなことだけをやる凄さ
好きなことはとことんまでやる子どもを見て本当に感心する。
ご飯も好きなものであれば何も言わずに座ってしっかりと食べ、おかわりまでする。
おかわりの時は自ら食器を持ってきては「おかわりくださーい」という。
食べ終わった後は「ごちそうさまでしたー」としっかりとお礼まで。
逆に嫌いなものだと座ってられず、次々と他に目が行く。
ご飯の途中であろうとベタベタの手でおもちゃを触り、怒られる。
かろうじて座ったと思えば今度は食材で遊び出す。
どんな時も面白いと思うことだけをする。
大人は子どものこの言動を特別と捉えるが、ところがどっこい
♯突然の江戸っ子
自分のことを棚に置いている。
きっと以前は自分もそうだったはず。
好きなことをしていたはずだ。
相手から見られる自分が全てになってしまっている大人
それが知識や、たくさんの人と付き合う中で相手から見られる自分だけを意識していていった結果好きなことだけではなく、その場にあった適切な振る舞いという固定観念を身につけていく。
確かに結婚式の席で食材で遊ぶことは良しとされていないし、葬式で好きなことをやるわけには行かない。
でもよく考えればこれも固定観念。
大好きな人の式であればその人が喜ぶことが仮に食材で遊ぶ(例えばケーキを食べさせあったり、食べられないくらいの大きなスプーンで食べされるイベント)であれば喜んでやっているし
大好きな人の葬式であれば、好きなこと(同じようにカラオケ好きだったならばカラオケをして送り出している)をやっている。
これが全く素性を知らない他人が、結婚式はこういうもんだとか葬式にカラオケをするなんてけしからんなんて言ったりする。
それをまに受けるかどうかはあなた次第だ。
そもそもあなたが納得してやっていることなのだから他人にどう言われようが知ったことはない。
でも相手から見られる自分。つまり偽りの自分が優ってしまうと途端に空気を読み、自分のやりたくないことを選んでしまう。
こう言ったことの連続により、偽りを選ぶことが当然になってくる。
先程お話しした子どもの凄さを潰してしまう自分の言動とはこの偽りを選ぶ連続を経験してしまったからこそ
そのことをいつの間にか押しつけてしまっている自分にゲンナリする。
自分もそのことによって理不尽さを感じていたのに。
今からでも遅くはない永遠の3歳児へ
上記のことを踏まえ、ボクは子どもを師匠と崇めることにした。
どちらかといえばボクは好きなことをしてきた方だが、まだまだ何か分からないストッパーが邪魔している。
それが他者から見られる自分。全ての人からよく見られたい自分だ。
自分の好きなことをしたいと豪語するにもかかわらず、この考えが同居することはかなり困難を極める。
というか、矛盾している。
自分のしたいことが他者目線で生きることならば、成立するがそんなことは絶対にない。
子どもは自分のしたいこと以外やらない。特に怒られることを避ける。
つまり自分の不快なことはやらないってこと。
そしてその不快なことを増やしているのは大人。ほとんどが自分都合で怒っていないか。
勉強をしていないとかはまさにその典型で、宿題をしていなくて子もあるのは子どもだからやらないならやらないで学校で怒られれば良い。
それを家で怒るのはナンセンス。促すのはokだとしても怒ってしまっては自分都合でしかない。
宿題をやってきてないのは親の教育だと言われるのではないかとか、自分も言われてきたから子どもにいうならば自分都合。
まずは怒らないことから実践したい。
これも困難も極めるが、自分に余裕があれば子どもがどんなことをしてを大抵ことは笑って済ませられる。
ボク自身が好きなことをやる前にしなければいけないことは、師匠と崇める彼らの行動を決して邪魔しないということ。でなければ彼らの可能性を奪ってしまう。
お分かりだとは思うが、ボクは決して完璧にこなせているわけではない。
上記のほとんどは自分に言い聞かせている。
目の前の師匠を真似しながら、自分のやりたいことをやる。誰かの目線ではなく自分目線でやりたいことをとことんやっていく。
永遠の3歳児になればきっと人生は豊になるのだと思う。
ではまた。