深夜のかりすま名画座:シン・エヴァンゲリオン劇場版:||【ネタバレ注意】
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||
シンジは自らの選択によりカヲルの死、フォースインパクトを引き起こしたショックで失語症になってしまいます。廃人同然になった彼はアスカや黒レイと共に難民居住区「第3村」に身を寄せ、14年越しに再会した友人たちのもとで居候します。
シンジは友人たちに見守られながら、新たな喪失に苦しみながらも活力を少しずつ取り戻します。他人との触れ合いの中で”空白の14年”と人々の苦しみを知った事で、果たすべき責任を今一度全うする決心をしました。
ヴンダーはシンジを艦内の1室に収容したまま、ネルフとの最終決戦「ヤマト作戦」に臨みます。
エヴァは完結した事で名実ともに名作になった。それが率直な感想です。
自己の肯定、他者の容認
シンジはエヴァTVシリーズ最終話で、人類補完計画(サードインパクト)を経て「自己の肯定」を果たしました。一方で旧劇場版では。同じく人類補完計画の過程で「他者の容認」が行われ其処に伴う「容認と拒絶の苦痛」が、エンディングのシンジたちのやり取りで表現されました。
シンジはシンエヴァにおいても「自己の肯定」「他者の容認」に挑みますが過去作と異なる点があります。
それは2つのプロセスが行われる場所。旧2作が人類補完計画の実行中という言わば「虚構」の中であるのに対し、本作では。第3村の生活や実際の人間との関わり、つまりは「現実」の中で「肯定」「容認」を身に付けて行きました。
この差異こそが、シンエヴァのエンディングを導く上で最も重要な鍵となります。
シンジが求めた父性、そのメタファーとしての渚カヲル
シンエヴァのクライマックスにとても印象的な場面があります。渚カヲルがネルフ指令室にて、碇ゲンドウと同じ服装を身に付け登場したのです。そんな彼の事を加持リョウジは「渚指令」と呼びました。
真っ先に頭に浮かんだのは「カヲルはゲンドウのクローンか」という疑惑でした。
根拠になりそうなピースとして「アスカが式波シリーズのクローン」「綾波シリーズもまたクローンで、シンジに好意を持つ様に作られている」「カヲルとレイの2ショット(ゲンドウのクローン、ユイのクローンと暗に示している?)」等が挙げられます。
面白い解釈とは思うけれど、これを特に支持する事は致しません。
然し確かに、カヲルとゲンドウの描写に関しては。両者が同一の所作を行ない、シンジに「カヲルくんは父さんに似ている」と発言させる等の繋がりを感じさせるものがありました。
それは何故か。本稿では独断と偏見に満ちた1つの説を提唱します。
“カヲルの性格はシンジが作り出した虚像である”
シンジにとってカヲルは「頼りになる」「行動に示唆を与えてくれる」「自らの決定を尊重してくれる」存在。つまり、これは。シンジが求める父性であり、ゲンドウに求める父親像でもあります。
カヲルとゲンドウのパーソナリティが極稀に重なる。この描写の正体ですが、カヲル虚像説を前提とするなら。シンジがカヲルという虚像を作り出す上で、ゲンドウの一部をトレースした事が原因と考えられるでしょう。
物語に少年と父親(父性)、と来ると"心理的父親殺し"。
心理的父親殺しについて、かなり大雑把に説明すると。少年が大人として自立する過程で、父親の支配と庇護から決別する心の動きを指します。
これを念頭に”カヲルの死”を振り返ると、興味深い事実が見えます。
カヲルの最初の死はTVシリーズ24話。シンジの手によって彼の命は奪われます。シンジはミサトに促されエヴァで出撃し、カヲルに請われた事で彼を手に掛けました。
エヴァ新劇Qにおいては。図らずもフォースインパクトのトリガーにされ、シンジから引き受けたDSSチョーカーの発動で命を落とします。
シンジにとってカヲルの死は即ち父性との決別でありますが。以上の2例はどちらも自発的でなく、現実の親子関係に例えると「年齢を重ねたから、子は大人にならざるを得ない」「親との死別で、子は自立せざるを得ない」というイメージです。
父性の喪失から人類補完計画、第3村における「肯定」「容認」の話に繋がるのですが。その後に実は、第3の死が描かれています。
冒頭で述べた「加持との会話」が、父性のメタファーとしてのカヲルの死で。つまりはシンジ(子)の自立で、カヲル(親)の自立でもあります。
根拠としては3つ、このシーンが。ゲンドウがシンジに「大人になったな」と言葉を掛けた後に差し込まれた事。カヲルがシンジの想定外の変化を認めるものである事。カヲル自身の願望を認識するものである事が挙げられます。
カヲルとレイの2ショット。カップリング論争の大きな議題となる場面ですが。これもまた、子育てを終えた(子離れした?)父母のメタファーに過ぎず。それ以上の意味はないと筆者は解釈しました。
最後に
旧劇場版「Air/まごころを、君に」が視聴者を虚構から突き放した事とは対照的に、シンエヴァでは”虚構”と(それに捕らわれざるを得ない)”鬱屈”の打破が描かれました。
虚構の上で視聴者に対し可能性を示す事で、今度は突き放すのではなく背中を押す。それを目的とする「アディショナル・インパクト(虚構と現実の渾然化)」が「新劇場版シリーズ」だったのではないでしょうか。
以上、この3カ月で旧エヴァからシンエヴァを1週した初見の感想でした。勢いだけで書き上げた拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。