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『弱者』に注がれる視線について、色々考えさせられる。

予め記しておくが、これから引用する以下の呟き主は、レフ・トロツキーに強く影響を受けた左派のアカウントである事を断っておく。

平成の約30年間、ソヴィエトや東欧の社会主義諸国の崩壊を以てして冷戦終結、資本主義経済の勝利が高らかに叫ばれたが、その裏側で、日本でのバブル経済崩壊以降の長期経済低迷というトンネルから、令和に替わった現在に於いても抜け出る切っ掛けを見出せない状況に、多くの国民が苛立ちを隠していないのは疑いのない処であろう。

また、その一方で、国政における『小泉純一郎政権誕生』や、関西における『大阪市職員厚遇発覚発覚』、鹿児島県阿久根市における『竹原信一市長誕生』といった出来事により、公務員が安定した職業であるという〈やっかみ〉から、彼等に対するバッシングが激化したのも、陰鬱なムードで流れ続けた平成年間を象徴していた様に思える。マスメディアを通して、旧郵政省や関西の公務員が、今となっては誹謗と言っても良い攻撃に晒されていたのは、多くの人の記憶に残っていることだろう。「公務員はだらけている。民間企業は厳しい競争に晒されているので、公務員の待遇を下げて、民間企業こそ優遇されて当然」と言わんばかりの論調が、さも美辞麗句の如く語られる光景は、今もなお続いている現象である。

だが、果たして、である。これらの出来事を通して、日本国民の暮らしは、遍く豊かになったのか。今なら確実に『否』と言えるだろう。自治体職員の民間委託などに伴う非正規雇用の拡大、消費税率10%への上昇による国民可処分所得減少、そしてそれに起因する消費低迷、富裕層とそれ以外に於ける所得格差の拡大が、長らく続く景気低迷に繋がっているのは、最早疑いようのない眼前の事実として受け止められよう。

さすれば、ひとまず消費税率の引き下げ(最終的には廃止)、老朽化したインフラの再整備などの公共事業の促進や、企業誘致、労働者賃金の上昇など、働く人々の便益に資する政策が打ち出されて然るべきであろうが、その声はTwitterなどのSNSでは大きくなりつつあるものの、テレビなどでその動きがあるかとなると、必ずしもそうとは言い難いのが実状である。

テレビなどのマスメディアで、SDGs(Sustainable Development Goals)、日本で言うなれば『持続可能な開発目標』が声高に叫ばれ、環境保護や性差別撲滅への運動の取り組みが取り上げられ、所謂日本の左派・リベラルに属すると思しき識者の論調もそこそこ高いものの、翻って、日本の労働環境の改善にどれだけ便益を齎しているかと言われると、筆者としては疑問を禁じ得ない。

日本での左派・リベラルに対する風当たりが強いと感じるのは、『弱者』として眼に見え易い対象に対しては関心が強く向けられるものの、現場業務に従事するなどの、所謂末端の基幹労働者、近頃流行りの横文字言葉で言うなれば、エッセンシャル・ワーカー(Essential Workers)とでもするのか。彼等に対する視線というものがあまり向けられておらず、置き去りにされているのではという懸念がある。この辺りの心理は、非正規雇用等の低廉な給与で苦しい生活を強いられている労働者に多く共通し、労働者からの左派・リベラルに対する冷たい視線にも繋がっているのでは、と考える次第である。

マスメディア等で、環境保護運動等に熱を上げるのも結構なことではあるが、もっと大事なこと。日々苦しくも毎日の生活を営んでいる人達に対する慈しみの視線こそ、重要なのである。この世に生を受けてから、十分な教育を受け、健康的な生活を営めるだけの俸禄を頂き、結婚し、家族を持ち、子を育て、老後を安らかに過ごすという、本当の意味でのSDGsが、一番望まれることなのだから。

日本国憲法の第11~14条、および第25・26条こそ、第9条よりも土台に来る、我々がもっとも求めるべき生きる権利だ。これが蔑ろにされている状態で、平和も到底あり得ない。

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
② すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

以前、TwitterでIrr氏がこう述べていたのを振り返る。

今でも賛否がかなり分かれる話であるが、此処から窺えるのが、左派・リベラルと目される大部分が、実際の処『弱者』に対する視線が冷やかに映っており、それに対する苛立ちを隠していない様に感じる点。もっと言うなれば、マスメディア等での報道からはなかなか伝わってこない、見え難い『弱者』への視線が疎かになってやしないかということであろう。

一部のリベラル界隈からは「ふざけるな!自分達は皆が幸福になる為に、一生懸命になって社会が良くなる運動に取り組んでいるんだ!」という誹りを免れないかも知れない。だが、末端で日々の生活を遣り繰りするのに苦しんでいる人達から、果たしてそういう風に受け止められているのか、と考えると、実際の処、筆者の周囲も含め、あまり好意的には受け止められていないというのが実状である。もっと根源的な、日本人、日本という国の在り様を考える際、持続的にこの先も暮らしていける社会の姿がどうあるべきなのか、というのを問い掛ける際に、より望まれる『弱者』への視線というものを、真剣に自問自答しないといけない、そういう段階に最早入ってしまっているのかも知れない。

長らくこのフレーズは忌避されてきた印象も根強いが、敢えて此処は今こそ「万国の労働者よ、団結せよ!」であろう。労働者を、生活者と置き換えてみるのも良い。セーフティーネットとしての、生まれ育った環境を失わない為に。

長渕剛の楽曲に『家族』という歌がある。歌の最後はこうして締められている。

白地に赤い日の丸 殺したくなるよな夕暮れの赤 白地に赤い日の丸 この国をやっぱり愛しているのだ

どうしようもない国、どうしようもない社会だと悲憤慷慨し続けるよりは。そして本当に日本が〈持続可能な社会〉として在り続ける為ならば。

(2021.6.26 初回投稿。実はひと月前からポツポツと書き始めていたんですが、どうにも家に戻ると書くテンションが上がってこず、此処まで遅れてしまいました)

(2021.6.27 思う処があり、irrさんの事と長渕剛兄貴の歌の事を書き加える)

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