日本から無くしたいもの〜愚痴を添えて〜vol.1
自分には日本から無くしたいものがいくつかあります。
今回は、第1回目ということで愚痴も交えて記していこうと思います。
今回のテーマは、「映え」です。
「映え」はもう説明もいらないくらい社会に浸透した言葉になっています。
みなさんご存知の通り、Instagramに画像を投稿するのは、もはや若者だけではなく、大御所タレントや政治家など各界の著名人、世代は問われません。ボクもいくつかアカウントを持っていて、フォロワー2000人ほどのアカウントもありました。まぁ、割と使っていた方ですね。でも、やめました。
ボクがInstagramを使い始めたのは、4年前の高校1年でした。
その時にはもう既に、LINEと変わらない連絡手段といった扱いでした。
大学生の方ならわかるかと思いますが、インスタでしか繋がっていない友人も割といると思います。ボクもその1人でした。でもやめました。
現状のインスタの使われ方は、
・稀有な経験の誇示
・稀有な人との繋がりの誇示
・自身の幸福の誇示
・自身の誇示
・他者への感謝の誇示
・空虚な繋がりの保持
・ステマや出会い系など諸々
といった感じでしょうか。
他にもあるかもしれませんが、ビジネスユースでもなければこんなものでしょう。
さて、誇示×5と保持で韻を踏んでいる各項目についてです。
まぁ、言葉で書くよりも実際に平均的大学生のインスタを覗けば一瞬で実態を把握できると思います。
特に、「〜〜に行ってきた!」や「〜〜さんにお会いできた!」「久々に集合!」「お母さん、いつもありがとう!」とかは典型ですね。
そこには、ほぼ確実に自分の写真が添えられています。
これらが誇示×5です。
保持の方は、ストーリーをご覧ください。
そこには、「乾杯!」や「試験終わった〜」などの文字が並べられたものがあるでしょう。これらは、自分のストーリーを見てくれている人間の顔を想像してアップするものです。
誰が見たかわかる機能、よく考えましたよねマジで。
ボクがインスタをやめたのは、馬鹿馬鹿しくなったからです。
インスタは「誰でも著名人気分になれる麻薬」のようなものです。
自分のフォロワーが、自分の投稿やストーリーを見てくれる。
多くの人は友人や家族など、実際に話したことがある人間がフォロワーの大半を占めているはずです。
しかし、インスタに慣れると錯覚するのです。
「フォロワーはファンなのだ」と。これが、全人類タレント化の始まりです。いつの間にか、次のストーリーに何をアップしようか考えいている。
フォロワーと自分のフォロー数のバランスが気になる。
これらは、少なくともFacebookとTwitterでは成し得なかった偉業です。
よく考えましたよねマジで。
では、本当にインスタは必要ないのでしょうか。
全ての人間に不要だとは思いません。先述の通り、デジタルマーケをしている企業や出会いに飢えた方にはもはや必須のアイテムでしょう。
しかし、多くの人はそうでないはずです。
「プライバシーが...」と言いながら何となく怖いから、鍵アカに設定して、クローズドな空間で自身のあれこれを誇示&保持するのが、大衆の実態です。訳がわからないでしょう。
見たくないならフォローを外したりインスタを消せばいい、とかそんな話ではないと考えています。
「映え」による行動変容は、人々から幸福を離散させるからです。
乾杯と言いながら、片手にグラス・もう片手にスマホ。
久々に会った友人が、改札を出てくる様子を撮影しながら、待機。
これらをインスタにアップしようと撮る。
このインセンティブが人びとの間に根強く残る限り、目の前にいる人間と分かち合うべき幸福が、どれだけの人に見られたか、どれだけのリプライが来たかという数値で代替されてしまう。
これは大問題です。よく「映画の感動は言葉にすべきでなはい。そういった種類の感動や情動もある。」と言いますが、その類の話ではないと考えます。そもそも人との幸福に向き合えないのです。
遠くにいる自分のファンに見せたい。
その根性で動いているのは、各界を一身に背負ったスポーツマンや各紙記者などでしょう。ボクらじゃない。
よく考えるべきです。
本当にその写真をインスタにアップする必要があるのでしょうか。
旅行先の写真は、LINEグループでアルバムを作ってシェアすればいい。
家族への感謝も、成人式での晴れ姿も、本当にありがとうを伝えたい人間に示せばいい。
この幸福は、ここにいる人間でシェアすればいい。
そして気づくべきです。
自分はインスタを使っていて幸福なのか。
いつも自分の見られ方を気にする。誰が自分のファンであるか気になる。
この衝動は幸福に必要なのか。
「いつも見てくれてありがとう」と言う相手がそこにいるのか。
答えは自ずと導かれるかと思います。
それでは、また。