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大原女が歩いた道

新潟県柏崎市の山間の村、女谷(おなだに)に伝わる綾子舞は、出雲阿国の歌舞伎踊りを色濃く伝えると言われる芸能です。かつては四つの部落で伝承されていたそうですが、現在では、下野(しもの)、高原田(たかんだ)の二つの部落にのみ伝えられています。

交通の不便なところですが、大学時代に一度、結婚してから家族でもう一度訪れたことがあります。四方を山で囲まれ、日本の原風景とでも言いたくなるような美しい村です。閉ざされた空間であるからこそ、古い形のままの芸能が継承されてきたことを実感しました。

綾子舞は小唄踊り、囃子舞、狂言で構成されます。

小唄踊りは室町時代から江戸時代にかけて流行った小唄、つまり流行歌に合わせて踊ったもので、演目の一つ、「小原木踊」はこんな歌詞で始まります。

小原 静原 芹生の里
おぼろの清水に 影は八瀬の里人
知られぬ梅の 匂ふや匂ふや この薮里の春風に
松ヶ崎 散る花までも 雪は残りて 春寒し

柏崎市綾子舞後援会『出羽・本歌・入羽ー綾子舞、21世紀への伝承』

大原女

「小原木踊」は頭に重い柴を乗せ、京の町へ行商に出かけた大原の女性、大原女(おはらめ、おおはらめ)が都に愛しい人に会うために薪を売って歩く様を表現した踊りだそうです。
歌詞の中にも薪を売り歩く言葉が出てきます。

小原木 小原木 買はい 買はいのう 黒木を召さいな

(この部分を踊る時は、右手に持った扇を肩の上に乗せて歩く仕草をします。何十キロもある柴を乗せて歩くんだから、ちゃんと足を踏みしめて、と踊りの先生に注意されたことを思い出しました。)

白布をかぶり、紺地の着物に木綿の帯を前結びにし、前垂れをかけた大原女の姿はかなり人目をひいたようです。この衣装は、寂光院に隠棲された建礼門院の女房、阿波内侍(あわのないし)が着ていた衣装が原型と言われます。

小原木の冒頭の歌詞は、大原女が重い柴を頭に乗せて通っていった地名が連ねられているのだろう、くらいに思っていましたが、口ずさんでいるうちに、二行目の

おぼろの清水に 影は八瀬の里人

が、単なる地名の連なりではないような気がしてきました。
調べてみた結果が以下。

おぼろの清水

おぼろの清水(しみず)。つまり霞がたなびくような清水という土地があるのかと思っていたのですが、そのものずばり、おぼろの清水と呼ばれる場所がありました。

壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し、入水をはかった建礼門院が命を救われてのち、平家一門の菩提を京都大原にある寂光院で弔いました。
寂光院に向かう途中で日が暮れ、月明かりで自らの姿をうつして嘆いたと言われる泉が「朧の清水」です。

八瀬

八瀬(やせ)は、比叡山延暦寺のふもとにある土地の名です。この地に住み、延暦寺の雑役や輿を担ぐ役を担った人々が八瀬童子(やせどうじ)と呼ばれました。この八瀬童子は代々の天皇の御輿の他、棺を担ぐ役割も担っていたそうです。
「影は八瀬の里人」という歌詞に、幼い息子、安徳天皇を失った建礼門院の悲哀が重なるような気がしてなりません。

小原木踊りの後半ではこんな歌詞が出てきます。

八瀬や 小原の 賤しき者は
イヤじんや 麝香は 持たねども
匂ふて 来るのは たき物

柏崎市綾子舞後援会『出羽・本歌・入羽ー綾子舞、21世紀への伝承』

「じん」は沈香のことでしょうか。
焚きしめられた香りは、どこか近くに貴人がいることを暗示しているようです。これも、静かに寂光院に身を寄せていた建礼門院の存在が、周囲に少しずつ知られていく様子を示しているように感じます。そうして小唄という流行歌にのって、平家滅亡の悲劇の物語の一部として、人々に伝わっていったのでしょうか。そして行き止まりの土地である女谷に残された、ということなのかな、と思っています。

ひとつひとつの言葉を調べていくと、小原木の歌詞は建礼門院によせられているような気がしてきます。

今回は、趣味の世界にはまりこんでしまいました。
私が考えたことが正しいかどうかはわかりませんが、中世の歌舞伎の源流が、新潟の山間の村に今なお伝えられていること自体が、不思議な気がします。


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