「正しさ」に寄り添うなんて簡単だよね
我慢ができなくなってきたのでnoteに記す。
正しい事が正しい、
そう思い込まれている世の中が気持ち悪い。
何を持って「正しい」と判断されるのか。
一番わかりやすいのは「法律と照らし合わせて」という判断基準な気がする。
物を盗めば「窃盗」だし、
その時に危害を加えたら「強盗」だし、
勢い余って殺したら「殺人」だし、
そんな事が「正しい事」とは思えないし思わない。
その判断は全くもって正しい、気がする。
「気がする」のはその人の「バックグラウンド」がわからないから。
私たちが色んな状況に対して好き勝手言っているのは本当に正しいのか?
そもそも、そんな勝手な事を言う権利を有しているのか?
その時、その場所に、自分が居ても同じ事を言えるのか?
ひとつの例を提示してみる。
「京都伏見介護殺人事件」という事件がある。
概要を説明するならば
54歳の息子が86歳の母親を殺害した事件
である。
概要だけ見たら許されざる事件に見える。
もう少しだけ説明を付け加えてみる。
54歳の息子が親子心中を図って86歳の母親を殺害した介護殺人事件
となってくる。
何だか少しだけ見え方が違ってくる。
もう一押ししてみる。
54歳の息子が生活苦から親子心中を図って認知症患者の86歳の母親を殺害した介護殺人事件
バックグラウンドが明確になれば、見え方が違ってくる。
詳しい事件の概要は本筋ではないので省くが、調べれば調べる程「致し方なかったのではないか」という思いが強くなってくる。
もちろん、承諾殺人が法律的に罪に問われる事が大前提ではあるのだが。
「正しさ」を盾に相手を思いやる気持ちが減退している社会に対して激しい憤りを感じる。
そして、その社会の中には自分自身も含まれている。
その状況が変わらないことや、変えられないこと。
それを目にし続けるのは非常に辛い。
目を覆い隠すことや、見なかったことにすることは容易いのだが、知ってしまった以上、逃れられない呪縛にかかった気持ちだ。
日夜「正しさ」を武器に人々が殴り合っている。
でも、その「正しさ」に血が通っていないように見える。
こんな話をしていると「自分が被害者なら同じことを言えるのか」という言葉が飛んでくる事がある。
そんなの当たり前に「言えない」に決まっている。当たり前すぎる。
でも、幸いな事に「被害者」ではないのだ。
それは「運」がいいだけなのだ。
だから、まだ私には「加害者」と言われる人たちに思いを馳せる権利が残っている。
「被害者」には心寄せる事はできるのに、「加害者」と言われる人たちにはどうして思いを馳せる事が難しいのだろうか。
自分の想像でしかないが「異端」になってしまうし、それが「恐怖」なのではないだろうか。
こんな事を書きながら、私も心の片隅には「こんな事を書いて叩かれないだろうか」という恐怖感が渦巻いている。
今、それを押さえつけながら文章を書いている。
同じ気持ちが皆もあると仮定するならば、気持ちは理解できる気がする。
でも、でもでも。
私は「正しい」と思っている事を皆で「正しい!」と言いたくはない。
状況に逆張りしているだけと言われたらそれまでなのだが、その「正しさ」の中には何もない気がする。
そこには血が通わない言葉が転がっているだけで、そんなものをいくら凝視しても何も見えてこない。
「あー、これは酷いなぁ」と言いながら、遠くから眺め続けている事しかできない。
別にこの文章を書いたところで何かが変化するわけではない。
むしろ、何も変わらない。こんな文章で何かが変わるわけない。
変わらないけれど、自分の気持ちをもう一段階、固める事はできると思う。
私は「正しさ」には寄り添わない。決して。
寄り添うべきはそこにいる「人」でしかないのだ。