別れ
同じ学校とか、同じクラスとか、そういうことで一緒になる子たちは、一緒に居て楽しくて仕方なかった子もいたし、なんとなくうまく付き合っている子もいれば、どうしても苦手で、どうにか関わらないように祈るしかない子もいた。しかしほとんどはクラス替えや卒業で別れていってそれきり。もう少し大人になってから、学生時代の出会いと別れは忙しく、出会いもノリや友達の友達とかそういう人たちも居て、付き合いも短いままに気づいたら自然に別れというよりも、関係が消滅していくのも当たり前だった。大人になったら働いて、プライベートでは気の合う人達と楽しくやってればいいんだろうと、子どもの時は大人が羨ましかった。
しかし、もちろんそんな訳もなく、一日のほとんどが職場にいる時間だし、学校以上にいろんな人がごちゃ混ぜになっている。いい人ばかりではなく、それを見分けることさえ必要になることもある。人生のほとんどは人間関係でできているから、寧ろ、子どもの頃よりも担う役割と、シチュエーションは段違いにレベルアップしている。サガっている時は救いようがないくらいに人のことが信じられないくせに、アガっている時は人類皆兄弟みたいな気持ちになるのだから、人間てのは都合のいい生き物だなと思う。
キッパリと別れる、というのは人生の中でもなかなかないのではないだろうか。だから、サラッとして綺麗なもののように別れが扱われるのを見たり聞いたりすると、それは形式的な儀式としての別れだと思ってしまう。だが、形式的なものも案外きっかけとなり、しっかりとお別れできるとっかかりとしての役割を果たす。それがわかりやすいものだと卒業式とか、お葬式。そういう儀式として行って流れに身を任せて気持ちを整理していく別れとは違って、大人になった私たちの身近に起きる別れとはもっと、自身の決意と覚悟があって、ドロドロしてモヤモヤしているものだと思う。SNSやインターネットがあって当たり前の時代に、手紙を出すとか、住所だけを頼りに行って会うとか、そういう時代ではないのもわかってはいるのだが、別れを決める覚悟という、重くて大変な労力がいることも忘れてしまってはいけないような気がする。恋人も友達も、便利なSNSやアプリで出会い、別れる時も出会った時と同じツールを使う人も多いかもしれない。会わないで楽チンであるが、人間の気持ちや思いまでは利便性が高まっているわけではないから、会わないで済ますその裏では、もっとよくない感情、恨みとか憎しみが増すのではないだろうか。
別れというものは、ものを手放すこととよく似ている。自分と対話して、決意して、覚悟を決めることだ。別れは、ある時、自分で決められるし、自分の手で下すことができる。なぜこれを手放せないんだろう、なぜ迷っているんだろうとその答えが出ないままのこともある。誰かの手に渡ってしまうなんて耐えられない。また手に入るだろうか。迷いがあるのに、無理をしてまで、別れを選択することもないし、それで今、自分の気持ちがいい塩梅のところに乗っかっているならばそれはそれでいいとも思う。自分に決められる力が溜まるまで、止まり木のようにそこにいれば良いことである。しかし変化は訪れない。状況が悪くなることだってあるだろう。そうでなければ、さあ、ついにどっちを選ぶかという時にまた考えれば良いことである。そうして、それでも覚悟して別れを決めたものに手に入るもの。それは潔さ。強い人だけがもつ潔い諦め方と、潔い妥協の仕方がある。自分で決めながら生きるものには別れの決断をも強いられるのだ。そうやって、自由に生きていく。あんなに欲しかった自由は、思ったよりずっと厳しいものだった。でも強くなって潔く負けも認められる自由な自分は、後悔とかそういう言葉とはどんどんかけ離れていく。自分のことは自分で決める。出会ったけれど、いくら時間をかけても愛のバランスがうまく取れずに、結果として選んだ別れを愛でながら生きていく。それを選んで生きていたこともあったんだから。
ここで春になって、冬の寒さに固く縮こまっていた、口も、身も、心も、ふわっと緩んで、みんな自分を解放して、花粉のように行きたいところへ、ミツバチにくっつたり、風に乗って飛んでいけたらいいね。
さて、今の私自身は、決心をしてまで別れを告げなければいけないものは今のところ何もないのだが、どうしても手放せないものはあーだこーだ言い訳しながら家の片隅に積んだり、しまいこんである。夫は、私の夫とは思えないほどものを持たない人で、見習わないといけないのであるが、どうしてもできない。私は、今まで潔くものを処分し、ものを持たなかったはずなのに、いつからこうなったんだろう。私って、こんなに執着心が強かったのかと、仙人のような夫と暮らすことで改めて知る。ちょっと軽い気持ちでその辺にものなど置いておいて少し忘れようものなら、あっ!と気づいた時には、夫の手にかかり、ゴミの日に忽然と姿を消していたことなどままある。所詮、夫からみれば資源ごみかゴミと一緒か。お別れもさせてくれないなんて、いけず。これからも私の修行は続く。