[プチ読感]悪者がいないもどかしさ
「パッとしない子」を読んで
読んだ後の倦怠感に辻村深月さんの罠にはまってしまった気がしました。
この倦怠感の原因は「登場人物が誰一人として悪意を持って行動をしていない」ことにあると思います。
それぞれが、その時その場所で“比較的良い”と考えた行動をした、その結果が噛み合わない。
私は読みながら、必死で悪者を探していました。
一人でも悪意がある人がいれば、その人を蔑めばよいという安易な安心感を得ようとしていました。
主人公は教員でした。
そのことが、この話ですれ違いによる“恨み”を生んだ一番の要因であるような気がしています。
教員を“聖職者”だと思う人は少なくないでしょう。
確かに自分の子供が通う学校の先生がそのような人だったら、どんなに助かるかわかりません。
また、教員という大変な仕事を目指しただけでも十分立派です。
ただ、個人的には「教員が聖職者」であるというのは幻想だと思っています。
問題がある教員に対して「先生も人間なのだ」などと言う、逃げ道を訴えたいわけではありません。
先生に限らずどんな仕事にも責任があり、任された仕事はきちんとやり遂げる必要があると考えています。
ただ、先生に求める仕事に“聖職者”のレベルを求めるのは、非常に重たすぎると思うのです。
この本では、主人公が自分の受け持った生徒への心のケアが不足していたことが事の発端になっていました。
しかも、生徒の心裏まで気にかけて一挙手一投足に注意を払うことができていなかったと。
自身の行動一つ一つが生徒に影響してしまうことを意識して生活することが最良なのは理解できます。
教員免許を取得する授業ではそれ相当のことを学びます。
それでも、自分がその立場になることを考えると、徹底するのは決して簡単なことではないと思うのです。
ましてや、現代の教員は他の職業と比べ物にならない程、多忙を極めているように感じます。
そんな中でたくさんの生徒を見守り、ものを教えているだけでも十分仕事をやり遂げていることになるのではないだろうか、とも思ってしまうのです。
ここまで言うと、まるで主人公の肩を持っているようにとられるかもしれません。
実際「肩を持つ」というより、年齢的に主人公の方に「共感してしまった」ことは否定できません。
しかし、どちらが正しいわけではないと思っている気持ちに変わりはないのです。
きっと他人への期待が強い人ほど、ちょっとした“裏切り”に思える行動に対して敏感で、それがタイミングによって恨みに転じてしまうことがある気がします。
しかし、実際の世の中ではこの物語のような「噛み合わないこと」の方がたくさんあるのだと思います。
自身で気が付いていないだけで、私も恨みの対象になっている可能性は大いにあります。
幸い、私には長年恨み続けている人がいません。
確かに、瞬間的に敵意を向けてしまった人はたくさんいます。
ただ、“恨み続ける”ことにはすごく体力が必要、且つ決して楽しい時間が過ごせないことが分かっているので、今までの敵意にその覚悟が持てるようなものはありませんでした。
日本がとても平和になり、他者に対し親切丁寧に接することが当たり前のようになっていうように感じます。
もしかしたらこんな時代では、どのような立場の人間でもこのような状況になるリスクがあるのかもしれません。
そのことは頭の片隅に置いておかなくてはいけないと思いました。