[思い出話] 祖母の広島
私の亡くなった祖母は広島であの原爆を経験しました。
そのことを忘れていたわけではないのですが、先日ふとそのことが頭に浮かびました。
今回はそれを題材に、“思い出話”を書き残したいと思います。
今まで気にも留めてこなかった、被爆体験を話し続ける祖母の気持ち。
なぜ、こんな時期にそのことをふと思い出したのか。
そんなことを、“思い出話”と共に考えてみます。
祖母の体験談の中には、気持ちが良くない表現もいくらか出てくると思います。
また、戦争経験者でもない私の考えは、読む人によって不愉快に感じる部分があるかもしれません。
なので、戦争関連の話に積極的に触れないようにされている方には、読むことをおススメできません。
それでも、今書いておきたいのです。その理由も、最後にはご紹介できればと思います。
祖母の8月6日
当時11歳だった祖母は神戸に住んでいました。
その日は神戸から親戚の家を頼って、物産陳列館(現在の原爆ドーム)近くにある皮膚科に通うため広島に行ったそうです。
今で言う、アトピー性皮膚炎の症状で皮膚科に通う必要があったようです。
私も子供の頃は酷いアトピーだったので、それを聞く度「この人の孫なのだな」と実感したものでした。
診察を終え、病院の出口で座り込んで靴を履いていたときです。
『ピカーっと光で包まれて、目の前が真っ白になった』と祖母は思い返していました。
あまりの明るさに目が見えなくなった、と錯覚するほどだったそうです。
原爆投下の瞬間に関する描写はここまでしか覚えていません。
爆風や爆音の方が印象に残りそうなものですが、あまり話してもらった記憶がないのです。恐らく、祖母があまり語らなかったためでしょう。
というのも、その後に目の当たりにした光景の方が彼女にとって衝撃的だったからだと思います。
幸いにも、祖母が通っていた病院が鉄筋コンクリート造りだったため、本人は大けがをしなかったと言います。
祖母は外に出て、どこに行けば良いかもわからず街をふらふらと歩いたそうです。
街は病院に来る前と一転していました。
先ほどまであった建物が消え去り、跡形も無くなっています。
火傷を負った人は、必至で公園近くを流れる川に飛び込んでいったそうです。
そこで溺れて、亡くなった人もいました。
また、歩くこともままならない怪我人や死体が人とも判断が付かない状態で、道端にたくさん倒れていた、とも言っていました。
現代に生きる私には、どんなにその情景を想像しても、11歳の少女が実際に受けたその衝撃を計り知ることはできません。
その後、親戚のおばさんが迎えに来てくれて、なんとか帰路につくことができたようです。
後に、迎えに来てくれたおばさんは、祖母が絶対に死んでいると思い、泣きながら探し回ってくれていたと聞いたようです。
運よく巡り合うことができて、本当にホッとしたと思い返していました。
毎夏恒例だった祖母の話
私が小学生の頃は、毎夏広島に帰省していました。
そして8月6日になる度に、祖母は孫たちを集めて先ほどの被爆体験を聞かせたのです。
実際には、もっと街の様子や人々の状況を克明に話していたので、長い間話していたと思います。
話に出てくる凄惨な表現は、子供に恐怖を与えるに十分でした。
一度だけ祖母に連れていかれて原爆資料館を訪れた際には、祖母から聞いた話と展示物が重なり合い、逃げ出したい程怖かったことを覚えています。夜には悪夢も見ました。
それ以降、原爆資料館には足を運べていません。
現在は、展示物もあまり過激なものが置かれないよう配慮されている、とは伺っていますが。
ちなみに、その体験談を更に祖母の記憶が鮮明な時代から聞いている私の叔母は、一度も入れていないそうです。
自分事として受けとめる人を残す責務
正直言って、当時の私はこの話を聞く時間が苦痛でした。
当たり前ですが、決して楽しい話題ではありませんし、何より想像すると悲しく暗い気持ちになりました。
それでも祖母は、淡々と、「とにかく、聞いときんさい」くらいの雰囲気で語り続けました。
何故、彼女は聞かせたかったのでしょうか。
恐らく、本人にとっても決していい思い出ではないはずですし、出来れば思い出したくない経験だったに違いありません。
それを自分の子供や孫の世代まで伝え聞かせたのは、この史実を自分事として受け止める人を残す責務を感じていたのかもしれない、と今思うのです。
現在、原爆に関してなにか積極的な活動をしているわけではありません。
ただ、必ず毎年8月6日 8:15になると「あの時間だ」ということを思い出します。
恐らく、自分と同世代でこのように感じる人は少ないのではないでしょうか。
それは、幼い頃から原爆体験の話を刷り込まれたことで、まるで自分もその一端を経験したような感覚に陥っているのだと思います。
私の中で広島の原爆は“他人事”ではなくなっているのです。
“思い出話”だからこそ得られる感覚
原爆体験に関する文章や書物、は大量にあります。
また、それを題材にした物語(フィクション)も含めると、数え切れない程でしょう。
どれもがその悲惨さを伝え、人々の心に訴えかけるものばかりかと思います。
なので、正直自分の聞いていた話は壮大な物語でもなければ、凄惨さも然程伝わらない、ただの「祖母の思い出話」であり、他の人に話すようなものではないと考えていました。
ところが、先日東日本大震災から10年という日に、その考えに少し変化が起きました。
私も東京であの震災を経験しました。しかし、本当に大変だった現地の状況はテレビやネットでしか見ていませんでした。
そして、毎年3月11日になると関連する特番を目にしては、被災地の方々がどんなに大変な思いをしたか、頭の中で理解したつもりになり、話を聞いては心を痛めてきました。
しかし、東北出身の近親者のいない私の中で、どこか他所の話だと捉えていたのも否定できません。
そして、今年の3月11日、10年目という節目に政府の主催していた追悼式典が今後開催されない、というニュースを見ました。
聞いた瞬間は何の疑問も湧きませんでしたが、その後すぐに「何も感じなかった自分」に愕然としました。
他所の人から見れば追悼式典が終了するきっかけとして「10年の節目」が選ばれたことは、それほど大事に感じられないのかもしれません。
しかし、震災を肌で体験された人からしたら「勝手な節目」に他ならないのではないでしょうか。
むしろ、節目などはなく、ずっとあの出来事は心に重たい影を残しているような気がするのです。
ところが、ニュースを見て何も感じられなかった私自身はその“他所の人”になっていたのです。
この時、私はふと広島の原爆のことが頭に浮かびました。
まだ原爆に関しては、式典が行われています。私も何度か参加したことがあります。
恥ずかしながら、毎年リアルタイムで式典の様子をテレビで見る程の真剣さはありません。
それでも、もし仮に「式典が無くなる」となったとき、私はそのことに対して疑問を抱かずにはいられないと思います。
反対運動こそしないまでも、改めて原爆や式典の意味について考えることは必至です。
自身が被爆したわけではありませんが、私の中で広島の原爆は他人事ではないのです。
きっとそれは、身近な人から聞く“思い出話”だったからこそ自分の中に根付いているのだ、と気が付きました。
この気づきが、今回“思い出話”を書くきっかけになりました。
未来に考えるタネを残したい
私は、祖母から広島の原爆を自分事のように捉えて考える“タネ”を受け取りました。
ところが、そのタネを「伝える程のことではない」と判断し、これまで咲かせようともしてきませんでした。
もちろん、時代の移り変わりと共に、この事について自分事として考える人は更に減少していくことでしょうし、それを個人の力で食い止めることは難しいと思います。
しかし、先日の一件を受け、自分の持っているタネを少しでも咲かせようと思い直しました。
祖母の思い出話を自分の子供や少数でも感じ取ってくれる人に伝えるくらいのことはやりたい、と思ったのです。
少しでも、未来の人に広島の原爆について“考えるタネ”を残したい。
大人になった自分には、そのタネを残すことで、未来の人が同様の苦しみをしない判断ができるようにする責任がある、と感じました。
祖母は2年前に亡くなりました。私の子供は祖母の顔すら知りません。
祖母が亡くなる前に一度だけ、母と叔母が「被爆体験について録音しよう」と思い立ち、音声収録したことがあります。
それこそ、彼女達の方が長きに渡りその話を聞き、自分事に感じてきました。
だからこそ、若い世代に考えるタネを残したいという気持ちは、より強かったことでしょう。
その音源が今どこにあるか定かではありませんが、収録に立ち会った時、祖母は既に体力的にかなり衰えていて、私達が小学生の頃聞いていたように多くを語れていなかったことを覚えています。
そんな祖母の代弁ができたとは思っていませんが、少しでも私の記憶が鮮明なうちにこの“思い出話”を伝える決心ができたことを喜んでいてくれたら、うれしいです。