「私、ちゃんとしなきゃから卒業する本」プロローグ全文公開&期間限定プレゼント
5月15日にWAVE出版より発売する、小田桐あさぎ著『「私、ちゃんとしなきゃ」から卒業する本』のプロローグを全文公開します。
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はじめに
私が人生の中で一番「ちゃんと」していたのは、27歳の頃でした。
・働きながら夜間の専門学校を卒業
・手取り200万程度の契約社員として設計職で働く
・毎日のように終電帰り、休日出勤もしばしば
・休みの日はスキルアップのため資格試験の勉強
・一人暮らしで家事もこなし、毎日お弁当を持参
・女を捨てないように身だしなみにも気をつかう
・30までにちゃんとした男性と結婚すべく婚活中
・理想を上げ過ぎないよう、男性の許容範囲も広く
今書いてても当時の私はすごく真面目な頑張り屋さんだったと思うし、こんな子には本当に幸せになってほしい。
でも正直、この頃が、人生で一番、報われない日々でした。
待遇への文句も言わず真面目に働いているのに、職場ではまったく評価されない。
必死に婚活し、自分が結婚相手として悪くないことを目一杯アピールしてるのに、全くモテない。
たくさん我慢と節約をして一生懸命やりくりしてるのに、なぜか常にお金に困っている。
もっとやりたいことはたくさんあるはずなのに、時間だけがどんどん過ぎていく。
もう、ワケがわからないですよね。自分でも本当に不思議でした。
こんなに頑張っているのに、なんでこの程度の人生なのか。
でもワケがわからないなりに、当時の私が出した答え。それは、
「きっとこんな努力じゃ、まだまだ足りないんだ!」ってこと。
だからもっともっと「ちゃんと」すべく、必死で頑張りました。
世の中の流れについていくために新聞を購読したり、スキルアップのために英語の勉強をしたり、ダイエットと健康のためにジム通いをしたり。
でも結局、何一つ報われることはなく……。
努力が実り、資格試験と英検に合格したのに、契約社員のため資格手当をもらえなかったこと。
婚活相手の男性から、3回目のデートの約束を既読スルーでドタキャンされた上、1ヶ月後に何もなかったかのように「お元気ですか!近々飲みに行きませんか!」というコピペメールをもらったこと。
実家暮らしで、アルバイトのお金は全て自分のおしゃれと旅行に使う、味噌汁すら作れない女友達が、ハイスペックな男性とスピード結婚したこと。
こんな出来事が立て続けに起きたときに、こう思ったのです。
「もうどうにでもなーれ」と。
そしてこの先は、もう人生を諦めて生きていこうと思いました。
まずは、やりたかったホステスのバイトを始め、毎晩好きなだけ飲んだくれるように。
会社は休みがちになり、最低限の仕事だけを無気力にこなし定時帰りに。
お弁当作りも節約もやめ、食事は毎日、外食かコンビニご飯。
出会いアプリもやめ、友人が誘ってくれた出会いの場にも一切行かず。
週末は朝からお酒を飲みながら、丸1日ネットゲーム。
ちゃんとすることを諦め、未来のことを考えるのはやめ、その時にやりたいことや楽しいことを、欲望のおもむくままにする。
そんな刹那的な日々を送るようになりました。
その結果。気づいたらたった数年で、こんな日々を楽しめるようになっていました。
・100%理想の男性と出会い、2週間で結婚
・8年間ずっとラブラブ、ケンカは一度もなし
・理想的な家で5歳の娘を育てつつ、先日2人目を出産
・家事はほぼ全て外注、育児はやりたい範囲でのみ
・3年連続、年商3000万円以上
・3万人以上のフォロワーさんに応援していただいている
・時間と場所とお金の自由を手に入れ、毎月国内外へ旅行
・美容にも投資し、綺麗になったと言われるように
驚くべきことに、ほしかった以上のものが「全て」手に入ってしまったのです。私の人生をこんな具合に大逆転させた秘密は、たった一つ。
それは「ちゃんとする」ことをやめたこと。
驚きますよね。でも一度、これについて考えてみてほしいのです。
そもそも「ちゃんとする」とは一体なんなのか。
私たちは子どもの頃から、親にも先生にも上司にも「ちゃんとする」ことを第一に求められ「自分は本当はどうしたいか?」をほとんど考えることなく育ってきています。
でも実は、私たちが縛られているこの「ちゃんと」という常識。これらは大半が過去の産物で、今の世の中には全くそぐわないものばかり。
断言できます。
ものすごいスピードで変化する今の世の中では、世間一般的に「ちゃんと」している人生を送ろうとすればするほど、本来の自分らしさからは遠ざかり、人生はつらく大変に、さらに報われないものになっていきます。
でもこの「ちゃんと」という思い込みを外し、「本当はどうしたいか?」という心の声に従って行動すれば、欲しいものは全て手に入れられるようになるのです。
そして、ちゃんとするのをやめるのは、「自分と自分の周りを幸せにするため」。
自分だけがラクをしてみんなが我慢したり苦労すればいいということではなく、自分と、そして自分の周り、ひいては社会全体を幸せにしていくためには、まずは自分自身から変化していく必要があるということです。
この本では、いかに私がこの世の中にはびこる「ちゃんとする」呪縛から逃れ、周囲の目と闘い自分自身と葛藤しながらも、自分らしい生き方を実現させ、さらに周囲も幸せに変化させてきたのかについて、とことん具体的に赤裸々に書きました。
まずはプロローグとして、私の経歴からお話ししますね。少し長いですが、こんな私でも変われたということがよりリアルに伝わると思いますので、ぜひ次ページから読み進めていただけると嬉しいです!
プロローグ
~女の人生、ちゃんとするほどハードモード化〜
1 幼少期~高校受験
私は1983年に北海道で産まれました。7歳の頃、父の転職で埼玉県の大宮へ引越すことに。
30年以上、北海道から一度も出たことのなかった母にとっては、私以上に戸惑いがあったのかもしれません。元々、気性の激しい人ではあったけど、この頃からものすごく世間体を気にし、過保護になり、ヒステリックに怒ることが増えていきました。
小学校で少し成績が良かった私は、小3からずっと塾通い。お小遣いは誰よりも少なく、家の手伝いは毎日必ずで、中学生になっても門限は4時半。毎日スカート丈までチェックされたり、友人との手紙や日記まで勝手に見られては「あの子とは付き合うな」と、友人関係にまで口出しされる。見ないでと訴えても「親に隠しごとがあるの?」ってさらに怒られるという、なかなかの過保護っぷりでした。
私が興味のあることや、やりたいと思うこと……友達と遠くまで出かけたり、ゲームやインターネットだったり、興味をもちはじめたメイクやファッションなどは全否定。常に優等生の友人と比較され、成績が良かったり、何かで賞を取るなど、母が人に自慢できそうなことをした時だけ、褒められました。
母にとっての子育てというのは、私という人間の資質に目を向けるというより、いかに自慢できる娘に育てるかが全て。子どもというのは自分の子育ての正しさを証明する道具でしかないんだと、いつも感じていました。
元来が不真面目で、素直に言いつけを守る娘でもなかった私は、そんな母から毎日のように「ちゃんとしなさい!」って怒られてました。
毎日のように母と対立しては、口論ばかり。そのうち母のお眼鏡にかなうのもバカらしくなり、私はあまり勉強もせず、塾もたびたびサボるように。どんどん成績が落ちていく私に対し、見かねた母はこんなことを言いました。
「いい高校にさえ入れば、もうそんなにうるさく言わないから……」
その瞬間、私の中での優先順位は一気にチェンジ。猛勉強を開始しました!
この半年を頑張れば、私はもう、自分の好きに生きられるんだ!
そう思えば勉強も全く苦にならず、努力の末、地元で一番の進学校に合格。
これからは自分の好きな格好をして、好きな友達と、好きなだけ遊びたい。
バイトもしたいし、いろんなところにも遊びに行きたいし、
それより何よりカッコいい彼氏を作って色々なアレコレを経験したい!!
そんな希望に満ち溢れた高校生活のスタートでした。
2 高校~DQN時代
なのに! 驚くべきことに、高校に入ってからも母はほとんど変わりませんでした。
高校生なのに、門限6時(笑)。いや、確かに時間は延びたのですが……相変わらず同級生の誰よりも早く、部活からも遊びからも、いつも1人だけ先に帰らなければなりませんでした。みんなが持っていたPHSも、もちろん買ってもらえず。
自分で全て支払うという約束でようやく購入許可がおりたものの、そのためのバイトの時間も1日4時間までと制限される始末。
相変わらずメールを読まれたり、毎日「誰とどこに行って何をするのか」全て事細かに報告させられ、少しでも帰りが遅いと真面目な同級生の家に連絡し、彼女の帰宅時間を確認しては「〇〇ちゃんは何時には帰ってきてた!」と怒られる日々。
母に「高校に入ったら、もううるさく言わないって言ったじゃん!」と訴えるも、自分自身も親から厳しく育てられた母は「十分、自由にやってるでしょ! うちに住んでる以上、うちのルールに従うべき!」と、全く取り合ってくれませんでした。
この頃、私はバイト先でヤンキーの彼氏と出会います。当時「もっと自分の自由に遊びたい」という気持ち以外、何も持っていなかった私にとって、好きな時に髪を染め、毎晩のように友達と遊び、ゲーセンに数千円を使える彼は、とても輝いて映りました。
そして、昼間から学校をサボり、彼の家に入り浸るように。学校に行っていないことが母にバレないよう、成績表をコピー機で偽造して対策しました。
そうこうしているうちに、進路を決める時期がやってきました。
「母に何も言われず、もっと自分の自由に遊びたい」という理由で大学進学をやめようとする私に、もちろん母は猛反対!
「いい大学にさえ入れば、さすがにもうそんなにうるさく言わないから……!」
この台詞で、私の心のシャッターは完全に閉鎖。
結局、母にとっては私の気持ちなどどうでもよく、外から見える私のステータスだけが全てなんだと思ったのです。
自分の人生を生きたければ、一刻も早く母の元を離れるしかない。
そう思った私は、高校を卒業したらすぐに働くことを決意。彼と10代のうちに結婚し、ヤンママになり、一刻も早く家を出よう!と決めたのです。
最初はその辺でバイトでもしようと思っていたけど、「せめて正社員に」と考えた母が、新聞の折り込みチラシで地元の携帯ショップの仕事を見つけてきました。
仕事なんて何でもよく、バイトと正社員の違いも分からなかった私は、とりあえずそこで働くことに。
初年度から50回以上も遅刻して社長直々に怒られたり、接客態度にお客様からクレームを受けまくったり、まぁまぁダメな従業員でしたが……。
そして働き始めて半年が経ち、敷金礼金用の20万円の貯金ができた私は、ついに駆け落ち同然で彼氏との同棲生活をスタート! 家賃4万、築20年くらいのシャワーも出ないボロボロのアパートだったけど、もうこれで母から離れ、自分の自由に生きられる!と思うと、私は喜びと解放感でいっぱいでした。
……のも、束の間!
その彼氏はなんと、同棲開始するやいなや、仕事をバックれてニートに(笑)。
私は手取り14万の給料で、家事と仕事を、全て1人でこなすことになりました。
朝5時、まだ彼が寝ているうちから起きて、2人分の朝食と弁当作り。
片道1時間半かけて通勤し、10時間近く仕事。
その後は、スーパーに寄っておつとめ品の物色。
帰宅後は「腹へった~」とのたまう彼のために急いで夕飯作り。
夜は1日家で退屈している彼に付き合い深夜までパチンコやゲーセンへ。
10代の彼の性欲処理にも毎晩のように付き合う日々。
お金がなさすぎて肉も野菜もほとんど買えなかったので、当時は塩胡椒のみのパスタや、ふりかけご飯、もやしなどが主食でした。そのくせビールとタバコだけは切らさないヤンキー生活。彼がパチンコにどんどんお金を使ってしまうため、生活はどんどんままならなくなっていきました。
そこで私は、「はじめてのアコム」にチャレンジしてみたり、ダンスのCMで一世を風靡していた武富士に繰り出してみたり、果ては自分のパンツや携帯ショップの制服を、渋谷のブルセラショップに売りさばきに行ったり(※想像より高く売れました)。
そうやってお金を工面するものの、そのお金すら全部パチンコに使われ、ついに家賃が払えなくなる状況に。
でも驚くべきことに、当時の私には「彼と別れる」という選択肢はありませんでした。
なぜか? それはこんな状況にも関わらず、当時の私が自分のことを「まぁまぁ幸せ」だと思っていたから。大満足!とはいえないまでも、我慢できるレベルの家も仕事もあって、職場の人のことも嫌いじゃない、たまに遊ぶ友人もいる。彼氏ともなんだかんだ一緒にいられて、毎日ケンカはしながらも、ゲームでは一緒に笑い合える。
なんならヤンキー界においては、私の彼は暴力を振るったり浮気をしないだけ友人達よりマシで、彼女思いの優しいヤツと評判でした(笑)。
いやいや、彼女思いの優しいヤツなら、せめて家事はしたり、夜中まで連れ回したりしなくない!?って思うかもしれません。
でもこれは今思えば、彼に強制されてたというより、私が勝手に自分自身に課してただけなんですよね……。
私は自分のことを「ちゃんとしたいい女」であると認めてもらい、もっと大切にされたかったのです。当時の私が考える「いい女」っていうのは、仕事も家事もしっかりこなし、常に人には優しく接する、良妻賢母のような女性。
彼が私のことをあまり大切にしてくれないのは、私が「ちゃんとしたいい女」じゃないからだと思っていました。
母から押しつけられた「ちゃんとした」人間、それが嫌で逃げ出したはずなのに、幼少期からずっとそう育てられてきた私は、それ以外の生き方を知らず。
だから「すんごい大変だけど私、いい女だから頑張ってるの!」って思っていたし、「こんなに私はあなたのことを大切にしてるんだから、もっともっと感謝しなさいよ! 私の言うこと、もっと聞きなさいよ!!」って、こう、全身から「こんなに頑張ってるんだから、私を、認めろ!!」ってオーラをガンガンに出しながら、あまり思い通りにいかないことに、毎日イライラしてました。
結局、家賃が払えなくなったこと、そして過労と栄養失調から体を壊していたのに、お金がなくて病院にも行けない私の状況を知った母により、私はわずか3ヶ月で実家へ出戻りすることになります。
3 留学~転職~専門学校~婚活
実家に戻り、今のままじゃダメだと考えた私は、とりあえず英語を身につけようとお金を貯めてカナダへ留学しました。
明確な理由があったわけではなく、なんとなく英語が喋れたらいい仕事に転職できるかな?と思ったから。しかし帰国後、少し英語が喋れるくらいではそんなにいい仕事に就けるはずもなく(汗)、派遣で事務の仕事をしたり、急にデザイナーになろうと思い立ってweb会社で働いてみたりと、色々な仕事を転々としていました。
どの仕事も全く続かず、20代前半で転職回数はすでに5回以上……。
そして、私が毎日、報われない仕事で朝から晩まで働いたり、またもやヒモの彼氏と同棲して家事に育児(じゃないけど)に追われている頃、同級生はみんな華々しい大学生活を謳歌していました。
この頃から私は心の中で、こう思い始めるようになっていきます。
やはり自分の選択は間違いだったのかもしれない、と。
母からの自由を追い求めて、高卒で働いたり、駆け落ちしたりしてみたものの……結局私は自由な時間もお金も全くない、ある意味、昔以上に不自由な人生を送っているわけです。
極め付けは、5度目の転職で派遣の事務員になった時のこと。当時の私の主な仕事は、テプラとファイリングのみ。これではどんなに真面目に取り組んだところで先はないし、一流企業に勤める同級生たちと同じように100万のボーナスが貰える日なんて一生来ないということは、さすがの私にもわかりました。
母がいつも言っていた「ちゃんとしなさい!」。その言葉は、娘で自分の自尊心を満たしたい母自身のためでしかないと思っていたけど、結局はちゃんと大学に行き、ちゃんとした仕事に就き、ちゃんと結婚することが、この日本で幸せに生きるためには必須なんじゃないか……。私はこんな思いを強くしていったのです。
今からでもいい。やっぱり両親や同級生のような「ちゃんとした大人」になろう。
そう考えた私は、まずは何か手に職みたいなものをつけるべく、昼は働きながら、夜は建築の専門学校へ通い、卒業後、建築設備の設計の仕事に就きました。
しかし、この仕事は私の9回に及ぶ転職歴の中でも、ダントツで自分に合っていない仕事でした。学校まで行って就いた念願の仕事だったにも関わらず……。
今なら笑えるのですが、そもそも私は建築になんて1ミリも興味がなかったんです。設計に必須の物理は学生時代から大の苦手だったし、人と接するのが大好きな私にとって、1人で黙々と仕上げていく設計は、自分には一番向いていないタイプの仕事でした。
でも高校でドロップアウトした私が「ちゃんとした」職の社会人として生きるためには、もうここで頑張るしかない。だから「ちゃんとできない」自分が悪いんだと言い聞かせ、何とかしがみついていました。
このころ私は27歳。当時の私はなんとしても20代のうちに「ちゃんとした」人と結婚して逆転ホームランを打つべく、婚活を始めます。このとき思い込んでいたのは
「30歳までに第一子を産まないと、人から負け犬のレッテルを貼られて死ぬ!」
しかし毎週のようにお見合いパーティーに繰り出したり、出会いアプリで1日3人とのデートを入れるなど必死に頑張っていたのに、なぜか全くモテませんでした。
汚部屋に住んでることも、子どもが嫌いなことも、借金があることも、全てを封印して必死で自分からアプローチしていたのに……。
「高望みしてるから婚期を逃すんだ」と人に言わせないよう、男性の条件もめちゃくちゃ妥協していたのにも関わらず、です。
4 自暴自棄のあとの世界
もうどれだけ努力しても、私にはちゃんとした人並みの幸せなんて、手に入らないんだ。ここで私の心もついに折れてしまいました。
そしてちゃんとすることを諦め、仕事の手を抜き、婚活をやめ、未来のことより今楽しいことやしたいことを、欲望のままにするように……。
以前から興味のあったホステスのバイトを副業で始めてみたり、毎晩のように飲み屋やカラオケに繰り出したり、ビールを飲みながらネットゲームで徹夜をする日々。
会社は休みがちになり、最低限の仕事だけを無気力にこなすように。とはいえ忙しい職場であることには変わりなかったため、万が一家庭を持ってもこの職場では両立できないと思い、もうラクに適当に生きようと「安定企業でラクなアシスタント業務」に転職しようと決意。
まぁ、その転職活動すら面倒くさくて、エージェントに登録だけして放置しましたが……。
けれどもここで、まさかの転機が訪れます。
きっかけは、私以上に適当な転職エージェントのおっさんに、社員が10人もいない外資系ベンチャー企業での技術職という、私の希望とは真逆の仕事を紹介されたこと。
ラクに生きようと思っていたはずなのに、社長の熱さと魅力に惹かれ、気がついたら入社。さらに驚いたのは、配属先が新規開拓の営業だったこと。採用時と仕事内容まで違う、って(笑)。でもこの社長との出会いが、転機になったんです。
社長は、世の中の「こうあるべき」という常識よりも、自分の考える「あり方」をとても大切にしている人でした。そして私にとっては自分のことを初めて認めてくれ、自分もこんな人間になりたいと思えた、最初のメンターでもあります。
社長の影響で、私は人生で初めて自己啓発書にも出会いました。そして読みながら自分でも実践していくうちに、衝撃的なことを発見したんです。
それは……私が今まで目指していた「ちゃんとした自分になる」というアプローチって、もしかしたら間違ってたんじゃないか?ということ……!
そう。私はそれまでの自分の人生の実感として、薄々感じていました。
一番ちゃんと取り組んでいたはずの設計の仕事で、一番成果が出なかったこと。
一番女性としてちゃんとしていたはずの婚活時代が、一番モテなかったこと。
なのに、好き勝手に生きている今の私が、今までの人生で一番、仕事でも評価され、男性からもモテていること。
この事実をすぐには認められませんでした。
でも、めちゃくちゃ怖かったけど、そんな生き方をしている尊敬する社長や、自己啓発書に書いてあることを、信じてみようと思ったのです。
けれど実際に行動に移してみて分かったのは、この「ちゃんとするという考えをやめ、自分のありのままに生きる」というのは、それまでずっと反対を目指してきた私にとっては、実はかなり難しい、ということ。
だって「自分は本当はどうしたいか?」と聞かれたって、当時の私には特別やりたいことや、人生をかけて成し遂げたいような素敵な夢があったわけでもなく。
出てくるのはせいぜい「美味しいもの食べたい」とか「イケメンにチヤホヤされたい」とか「誰かお金くれないかな」とか、自分でもがっかりするようなことばかり。
それでも恐る恐る、そんなどーしようもない自分の「どうしたいか?」に従い、少しずつ行動を変えていきました。
結果、自分のダメさはそのまま、いやむしろ行動に移してるぶん、人から見えるダメさは上がったはずなのに、周囲の環境が、なぜかどんどん好転していきました。
そして冒頭に書いたような、自分の欲しかったもの以上のものが「全て」手に入ってしまったのです。
さらに、そんな私の姿を見た人から「話を聞きたい」とまで言われるようになり、4年前からはこの驚くべき人生の法則を、セミナーなどを含めれば5000人以上、私が直接の指導をする長期講座だけでも300人以上の女性に伝えています。
今、本人はもちろん周りまでどんどん幸せにしている彼女たちを見るたび、人は誰でも「ちゃんと」という思い込みを手放し、自分の本心に従って生きることで、欲しいもの全てを手に入れることは可能なんだと、驚きつつも実感しています。
次章からはいよいよ、私や私の周りの女性たちがどのようにして「ちゃんと」の呪いに気づき、自分らしい生き方を実現してきたのかを具体的に書いていきます。できそうなところから少しずつ、ぜひ試してみてくださいね!
2020年4月 小田桐あさぎ
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