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読書記録60 『わかりあえないことから』

平田オリザ『わかりあえないことから』
(講談社現代新書 2012年)

ほとんど演劇というものに知識がない私にとって平田オリザすら劇作家といった印象しかない。
ももいろクローバーZが主演した「幕が上がる」に関わっていて、演劇を用いたワークショップをしていることをかなり前に知ってはいたが。
その頃に出された新書であった。

教育に演劇をとりいれることに力をいれていることもあり、「コミュニケーション論」の本というよりは「教育論」的な内容も多かった。
興味深かった点を備忘録的にまとめていく。

第一章「コミュニケーション能力とは何か?」
・コミュニケーションが向上しているからこそ、見えてくる問題がある=コミュニケーション問題の顕在化という。
 →今までは問題にならなかった生徒が問題になる。(例;無口な職人→無口では成立しなくなる社会情勢。無口では手に職があっても面接で合格できない)
  コミュニケーションが苦手=先天的で人格にも関わる深刻なものと捉えがち。そうではなく、苦手だからでいい。理科が苦手。ピアノが弾けないくらいと捉えるでき。
  コミュニケーション教育に過度の期待をしてはならない「その程度のもの」
・コミュニケーションの多様化=ライフスタイルが多様化(ひとりっこ?同居?兄弟?帰国子女?団地?…)したために、得意とするコミュニケーションの範疇が多様化しているという現象のこと
 →平田「コミュニケーションは慣れの問題、しかし20過ぎればその慣れも実力のうち」
・「現場で学べ」に含まれる2つの課題
 →従来型の上位下達の環境のこと。現在、対等な人間関係の中で合意形成していく能力が求められるので体系的にコミュニケーションを学ぶ必要がある。
  とっとと現場で経験しろが通用しない「時代の変化」がある。

第二章「喋らないという表現」
・「待つ勇気」「教えない勇気」=すばらしいアイデアを出しそうな時に、教師が結論を出してしまう。教えた気になる教員。ヒントをだすがそれは、大抵教員がやりたいこと、方向性。
・「正しい言語」などなく、曖昧で捉えどころがなく、無駄が多い=不定形なものという覚悟をもつこと。
 →明治期に強い国を目指し作られた「国語」の役目は終わった。初等教育において「表現」「ことば」という科目に分けることを提唱。
  「表現」にはダンスもスピーチ、作文。図工、音楽も含む。分けることに意味がない。
  「ことば」では文法、発声、発音をきちんと教える。(=話し言葉の教育の基礎に)

第三章「ランダムをプログラミングする」
・人間がなんらかの動きをする時に無駄な動きが入ること=マイクロスリップ(認知心理学)
 →これが多すぎても少なすぎてもいけない。うまい俳優は、コントロールできる。
  稽古の回数が多い=マイクロスリップが減る。「最初の頃の方がよかった」などとも言われる。新鮮味も薄れない、演技の磨耗がない役者が天才。
・複雑な動きを記憶するにはインプットとアウトプットを同時に記憶している(認知心理学)、長期的な安定した記憶は複雑な印象の絡み合いからおこる。
 →例;体操選手の複雑な技…練習を繰り返し筋肉の動きなどを記憶。同時に天井や壁の見え方を記憶。
・日本の学校教育=短期的な記憶しか問うてこなかった。学校での学びと社会での有用な知恵が連結していなかった。
 →「学力」ではなく「従順さ」「根性」を身につけさせる=現在の学力学歴と企業で活躍する人がズレる。一致しない。
・「たくさん覚える、早く覚える」から「よく覚える」へ
 →「メチャクチャに教えた方がいい」、現実的には「教員の資質=ランダムをプログラミングできること」
  従来がすべて間違ってはいない。試行錯誤、バランスをとっていくしかない。
・アンドロイドの人間らしさ=ノイズが重要な要素。ランダムをプログラミングすること。

第四章「冗長率を操作する」
・強弱アクセントで感情を表現するという歪んだ演技法が20世紀初頭の日本で成立=胡散臭い、芝居がかったという感覚の由来
 →輸入の仕方を間違えた。日本語は強弱アクセントをほとんど使わない。日本語は強調したい言葉を、語頭に持ってきて繰り返すことができる。
 =西洋近代演劇の教授法はほとんど意味をなさない。日本の戯曲はすべて書かれている。語順が決定的な意味を持つ。
・平田は22歳でこれを発見し『現代口語演劇』というスタイルをつくる。
 →当時は理解されない。日本語教育に採用へ。教科書として使用されるテキストが不自然=話し言葉特有の語順を無視して描かれているから。
  演劇に対する偏見を払拭することはまだ。しかし、演劇などの表現手法をツールとした日本語教育の手法が各地で開発されつつある。
・会話と対話
 →会話=価値観や生活習慣なども近い親しいもの同士のおしゃべり
  対話=あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しいもの同士でも価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど
・日本独特のコミュニケーション文化=「わかりあう文化、察し合う文化」とよぶ。
 →日本がほぼ均質の価値観、生活習慣をもったもの同士の集合体=ムラ社会を基本としてきたから。
  ヨーロッパは異なる宗教や価値観が陸続き。他者に言葉で説明する社会=「説明しあう文化」
  文化的に日本は少数派。誇りを失わないままで説明する能力をみにつけさせたいと平田は言う。
・対話と対論との違い
 →「対論(ディベート)」;AとBという異なる論理。負けたAはBに従う。Bの考えは変えなばならない。
  「対話」;AとBという異なる論理が擦りあわさってCという新しい概念が生まれる。AもBも変わる。はじめにいずれにしても両者共に変わるという前提ではじまる。
・「対話的精神」…異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度のことである。
 →日本人は苦手。最初と意見が変わると嘘をついたように感じる。ヨーロッパは些細なことで議論になる。30分かけてA ‘にしかならなくとも2人で結論を出すことが重要。
  日本人の芸術家が才能を海外で伸ばせなかったのはこの「対話の基礎体力」(=日本では説明しなくともわかってもらえることを虚しさに耐えて説明する能力。異なる価値観と出くわした時に物おじせず、卑屈にも尊大にもならず共有できる部分を見つけ出していくこと)がなかったのでは?
・冗長率;1つの段落、文章にどれくらい意味伝達とは関係のない無駄な言葉が含まれているか?
 →多くの人は「会話」が冗長率が高いと考えるが、高いのは「対話」(例;会話…「メシフロシンブン」で終わってしまう)
  間投詞(へえ、まあ、いやあ)が多用される。
・冗長率を時と場合によって操作できる=「話がうまい」「説得力がある」→「コミュニケーション力」が高いとされる。
 (日本のきちんと論理的に無駄なことを言うな=本当に必要な言語運用能力なのか?スピーチ、ディベートばかりを教えていた教育の転換を。)

第五章「対話の言葉をつくる」
・法律で社会は変わる。女性の社会進出は進んできたが、言葉は社会の変化に追いつかない。タイムラグが生じるのは宿命。
 →現在、男女が対等に「対話」を行うための言葉を生成していく「過渡期」といっていい。合理性のみの変化は▲、美の観点のつきまとう。
  過度に神経質になっての言葉狩り×、新たな差別も生むかもしれない。しかし変革をためらうことも罪悪(前に進めるべきである。)
・英語公用化、言葉遣い改革は違う話とも言ってられない。
 →強要されたくないといいつつも性差や年齢を越えて対等な議論ができる英語。女らしさ、美点を捨てるべきではないといいつつ女性の社会進出を阻んでいる。
・政治家の言葉
 →田中角栄、演説がうまい。会話で民衆たちの心を掴む。演説+名前の連呼+後援会組織の強化で、中選挙区では当選できた。
  小選挙区は「対話」を要求する選挙制度。市民一人一人との対話を重視する政治家を生み出すとすれば、悪い制度ではない。
・対話のない国家=ファシズムを招いた。近代化の後発の国は、冗長率が高い対話は置き去り=無駄を排除、スピード感重視。為政者にとって無駄であり脅威となる。

第六章「コンテクストのずれ」
・アメリカは話しかけなければ、そうせざるを得ない文化=多民族国家の中で悪意をもっていないことを示さないと、人間関係のなかで緊張感やストレスが溜まってしまう。
・日本人は、シマ、ムラ社会。声や形にすることを野暮だという文化。
 →優劣はなく、それぞれが尊く美しい。しかし他国も学ぶべき点もあるということを前提にしなければいけない。
  要するに、「日本もそうはいってられない社会になってきた」→「何を残し、何をかえていかざるをえないのか」ということ。
・国際社会で少数派という自覚を持つ必要がある。勝負するためにはあわせていくことも多々。しかし、それはマナー(=多数派のコミュニケーション)として学べばいいだけ。
 →同化でも魂を売り渡すわけでもない。
・コミュニケーション教育は人格教育ではない…コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事といういのは、日本人が西欧人のように喋られるようになることではない。
 →欧米のコミュニケーションが優れているわけではない。しかし多数派の理屈を学ぶことに損はない。少しずつ体得していけばいい。
  例;エレベーターで「Hi」という。ナイフとフォークを使う=マナーと人格は関係ない。性格は悪いがナイフは上手いもいる。
・グローバルな社会で国際水準の仕事をする時には「文化」さえも捨てなければならない局面(例;韓国サッカーチームでの敬語問題)もでてくる。
 →何を守り、何を捨てていくのか難しい。
・「旅行ですか?」の台詞→文化的な背景が違えば、変哲のない台詞でも異なる意味や意図をもつ。
・話し言葉の個性の総称(=同じ日本語を話していても一人一人違う言葉を話している)=「コンテクスト」と呼ぶ
 →その人がどんなつもりでその言葉を使っているかの全体像のこと。「違い」のほうが「ずれ」よりも見えやすい。
  「ずれ」のほうがコミュニケーション不足の原因になりやすい。
  「コンテクストの違い」=文化的背景が異なる。例;日本人とアメリカ人、演者と脚本家
  「コンテクストのずれ」=高校生にとって「旅行ですか?」は自分にはない言葉。「簡単にみえる(=Aさんはあたりまえ。簡単におもう。)けれどコンテクストの外側(=Bさんにとっては体験も考えも「意識」もできないようなこと。)にある言葉」

第七章「コミュニケーションデザインという視点」
・「コンテクストのずれ」が蓄積し、いくつもの亀裂となって文化摩擦が起こる。
・コンピューターはコンテクストを理解するのが苦手。(本文、「田中先生が大好き」をコンピューターは理解できない。)
 →化学は「What」「How」には結構こたえられるが「Why」にはほとんど答えられない。
   「田中先生が好きならそう言えばいい」と大人は思うが、社会的弱者であるこどもたちはコンテクスト=「宿題の話し」で伝えようとする。
   コンピューターには理解不能。「気持ち」を理解できるのはいまのところ人間だけ。
・リーダーシップとは=弱者(社会的弱者と言語的弱者はほぼ等しい)のコンテクストを理解する能力。
 →論理的に喋る能力より、論理的に喋れない立場の人々の気持ちを汲み取れる人間。
  脳に障害(=自閉症など)がない限り、どんなにKYでも皆コンテクストを理解する能力をもっている。
  コミュニケーション不全がおきるのは、問題は組織やシステムにある。
  (例;不全がおこりやすい…時間が限られるビジネスの場。アクシデント、パニックが生じやすい医療の場。権力構造がきびしい研究室など。)
・コミュニケーションデザイン…コミュニケーションの環境をデザインするという視点をもつということ。
 →最新の知見(認知心理学、情報工学)を取り入れながら体系化していく必要がある。
・それぞれが得意とするコミュニケーションの状況が複雑化
 →社会人になれば自分の意志や意見を表明できるべきだが、日本のコミュニケーション教育が社会のニーズに追いついていない。
・シンパシーからエンパシーへ
 …役者の本来の仕事は「普段私は他人には話しかけられないけれども、話しかけるとしたらどんな自分だろうか」
 →自分の個性と演じるべき対象の役柄の共有できる部分を探ること。それを広げていくという作業。(平田は「同情から共感へ」「同一性から共有性へ」という。)
  いじめに関するロールプレイがわかりやすい例。エンパシー型の教育は、演劇的な手法が効果を示す。
  共同体はコンテクストの擦りあわせは長い時間かけて行う。演劇人は短期間でイメージを共有する。このノウハウが教育に大きな力を発揮する。

第八章「協調性から社交性へ」
・成長型の社会から成熟型の社会へと変容していく過程で、価値の多様化という局面を迎える。
 →日本はここにきて成熟社会への転換が一気に迫られている。成長社会の典型的なパターンはモノが人を幸せにした時代。
  現在大ヒット商品は生まれにくい。格好よさは万人によって違う。
・かつては「一致団結、心を1つに」が求められてきたが今や、日本人はバラバラ。(日本文化を前提とした人々だけではなくなった)
 →現在「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままでどうにかしてうまくやっていく能力」が求められている。
  これを「協調性から社交性へ」とよぶ。
・「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」と育てられてきた。
 →「心からわかりあえるを前提に、最終目標としてコミュニケーションを考えるのか」(=協調性)
  「人間はわかりあえない。どうにかしてその人間同士が共有できる部分を見つけて広げていくことならできるかも」(=社交性)
  これからの子どもたちに授けていかなければならないのは「社交性」ではないか。
・ヨーロッパの国語教育の主流=インプットは感じ方はひとそれぞれでいい。アウトプットは一定時間内に何らかのものを出しなさい。
 →日本とは反対。「作者の言いたいことは?50字以内で〜」インプットは狭く。アウトプットは個人の自由、スピーチや作文で茶を濁す。
・OECDが求めている能力が、「グローバルコミュニケーションスキル(異文化理解能力)」
 →その中でも集団における「合意形成能力」、それ以前の「人間関係形成能力」が重視される。
・みんなちがってたいへんだ→目をそむけてはいけない。
・日本社会には水平方向(会社などの組織)、垂直方向(教育システム全体)にもコミュニケーションのダブルバインドが広がる。
 →宙吊りにされたような気持ち「自分が自分でない感覚」と向き合わなければならない。わかりあえないことから歩き出そう。

内容をまとめるだけで凄まじい文量になった。日々様々な人にかかわってコミュニケーションをとっているが自身の経験からなんとなくそうなんじゃないかといった感覚をこの本は、理論的に説明してくれた。

こっちが苦労して動いているのになぜわからないのか?理解してほしいなどという感情は無くしたわけではないが昔ほど強くは思わなくなっている。あきらめているわけでは決してないが、そもそも『わかりあえないもの』であるとわかってきたのかもしれない。


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