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読書記録22 『増補決定版日本史』
渡部昇一『増補 決定版日本史』
(扶桑社新書 2020年)
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この本の帯には、
『無数の歴史的事実から自分の国の美質を示すのは史観である。無数の事実を見るための正しい視線の方向と距離が必要なのである。』
とある。
まさにその通りだ。異論はない。
自身が歴史をさまざまな当たり前のこととして、無難に疑問を持たずに学んできた。
資料、史料、史観、思想等々…。
正しいとされるもの(大学の権威のある先生方が研究しているもの)に疑問をもつということはなく、まずは学生なりに狭く深く掘り下げるだけ掘り下げることで歴史を学んできた。(それが大学のやる歴史学だったように思う。)
他分野の研究者だからこそ、当たり前の感覚で正しいとされるものに物を申すことができる。しがらみがないことや、別の視点というものが本当に大切だ。独りよがりでは響かない。
難しくない内容なのでスッキリと読めはするがなんとなくひっかかる。
まだまだ渡部さんの文章や考えに触れていないので、はっきりとはわからないけれど文章から垣間見える好き嫌いのようなものが『正しい視線の方向と距離』なのだろうか?
(これは、渡部さんの歴史の捉え方もそうだし。私の感じ方もそう。正しいとは何か?という問いだ。)
もっと、歴史は客観的に見る必要があるのではないか。文章の端々に見られる偏った『好み』のようなものになんとなく違和感がある。
美しくないも、美しいも感じるのは人間。
一般的な人が感じる喜怒哀楽こそ無視できない大切なことなのではないか。
それを見て見ぬふりをする政治に似たような臭いを感じてしまったような気がする。←これもまた、私の主観的。もっと沢山の渡部昇一さんの本を読もうと思うし、読む必要がある。
残念だったのは、渡部さんの考えがどこに由来するのか?一切参考文献が挙げられていないところ、これはいけない。どこからが持論でどこからが一般的に論じられていることがわからない。