読書記録34『散歩のとき何か食べたくなって』
池波正太郎
『散歩のとき何か食べたくなって』
(新潮文庫 1981年)
昔は良かったという人が苦手だ。
つい先日も目にしなきゃ良かったと思うSNSの記事を見てしまった。
昔は良かったと謳歌するだけ謳歌して今を嘆く。もういいやと投げられるこちらとしては…。
池波正太郎のエッセイは、時代も違えば場所も違うがいつもいいなぁと思ってしまう。時代が変わることへの嘆きや警鐘はならせども、イラッとくる『昔は良かったおじさん』ではなかった。
何が違うのだろうか?
池波正太郎は
『古いものの味わいが残っているうちは、これを味わいたいと考えているだけのことだ。だがこれだけは言っておこう。新しい新しいといっても究極の新しいものというのは何一つないのだ。新しいものは古いものからのみ生み出されるのである。科学と機械の文化、文明のみが、いかに新しくなっても、食べて飲んで眠って、しかも排泄するという人間の生理機能は、古代からいささかも変わっていないのだ。このわかりきっている一事を世界の人間たちが再認識せざるを得ない時代がやがてやって来るにちがいないと私は思う』
(p216 京にある江戸)
『いずれにせよ、変貌せざるを得ないからである』という。
恐ろしいほどの千里眼。昔は良かったおじさんに読んでもらいたい部分だ。
多種多様な選択肢があふれる今、大切なことが見えにくくなっている。考えなくてよい世の中で考えることが必要だ。
池波正太郎のエッセイはおもしろい。
ひとつ気をつけなければならないのは、お腹が空いている深夜に読むと非常につらい食テロになってしまうということだ。