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「与える側になれ」の裏側
こんにちは、えんちゃです。
これまでのnoteではお伝えしてきたのは、
「なりたい自分」になるための最速の手順でした。
誰でもない自分自身のオリジナリティを発揮するには、
環境、つまり自分の長所を引き出してくれる、
「仲間」と呼べるような人間関係が必要だということ。
「仲間」とは、オンラインサロンやコミュニティが用意してくれるものではなく、
他ならぬ自分自身が、人間として尊敬できる人を探すことによって見つけられるということ。
尊敬できる人と懇意になるには、
自分自身が、人間として尊敬できるような人になること。
もっと言ってしまうと、
自分が得をすることや構ってもらうことを考えず、他人に得をさせ、構われるより構いに行こう、ということ。
以上3ステップに分けて、解説させていただきました。
一言で言うと、「与える側になれ」ということなのですが、
世の中のほとんどの人はこれができません。
重要だとさえも思っていません。
何故か?理由は簡単。
まず与えよ。
などというのは、綺麗ごとだからです。
無暗にお金を払ってばかりでは、生活できません。
奴隷のようにこき使われるばかりでは、出会いも何もあったものではありません。
当然です。
なので今回は、
より現実的な視点として、
与える側になれ
などという主張には、一体どのような意図が隠されているのか?
ということをお話しします。
まず、ブームの裏には必ずお金の動きがあります。
世の中の多くの人が抱く欲望は、商売人達にとっては格好のメシの種です。
例えば「理想の自分になりたい」という欲望でいうなら、
周りの批判なんか無視すれば楽になれるよ!
やりたいことを突き詰めれば皆から注目されるよ!
仕事辞めれますよ!
といったような謳い文句が、SNSで散見されるかと思います。
このように、
欲しがれば欲しがるだけ手に入るよ!
と、まことしやかに力説すれば、ちょっと思慮が足りない人相手だったら、
いとも簡単に、よく分からないビジネス講座とかにお金を払ってくれます。
とはいえ、これは然したる脅威ではありません。
「何もかもが欲しいままにできる」
・・・なんてあからさまにサギっぽい話、引っかかるワケが無いからです。
問題はその逆。
むしろ、こちらの方がより尤もらしく、より厄介です。
「与える側になれ」
そう、
本noteの冒頭の主張でもあり、
「なりたい自分になるための3ステップ」の最終結論でもあります。
よく言うじゃないですか。
なんじ敵を愛せよ、とか。
右頬を打たれたら左頬を、とか。
般若心経ひたすら唱えなさい、とか。
これってぶっちゃけ、宗教のやり口なんですよ。
欲望丸出しだと食い物にされるから、我欲を捨てて生きよう。
そんな人間の良心に付け込んだ、巧妙なビジネスモデルなのです。
前門の虎、後門の狼。
でもね、そんなものはまだ可愛いもんです。
インフルエンサーや新興宗教なんてのは、
お布施がいっぱい集まって、教祖と幹部がウッハウハ♪
とかが「せいぜい」ですが、
これが仏教やキリスト教といった四大宗教クラスになると、
もはやお金などツールでしかありません。
宗教は政治と深く結びついています。
こうすれば救われる!
これを信じれば幸せになれる!
そういった心の拠り所を国の中心に作れば、
国家の主な構成要素、つまり「国民」の心を、意のままに操ることができてしまいます。
平安時代の貴族がお坊さんを利用して、思うままにシムシティしていたのは有名な話。
怖いですねえ。
しかし、「逆も真なり」とは世の常。
宗教を利用する権力者を、逆に利用する。
そんな「食えぬ」坊主もおりました。
それが、かの有名な弘法大師 空海です。
![](https://assets.st-note.com/img/1654327151114-3lWr77I7V1.jpg)
皆さん、ついてこれてますかー?(笑)
ここまでの話を簡単にまとめると、
なりたい自分になるには、与える側になればいい
しかし「まずは与えろ」とは宗教のポジショントークである
しかしそんな宗教さえも利用する坊主が一人
その男、弘法大師 空海!
ということでした。
さて、その弘法大師の空海さんですが・・・
空海には、野望がありました。
といっても、天下統一とかそういうのじゃないです。
もとより、浮世のあらゆる物に興味がゼロだった空海は、
人間なんか卒業して仏様になりたい!
と、思っていました。
それならば、
一刻も早く山に籠って念仏でも唱えてれば良い。
・・・と考えがちですが、これは素人の発想です。
というのも、人間は一人では仏様にはなれないからです。
確かに、山籠もりで得られる悟りもあります。
しかしそれは、次元の高い悟りとは言えません。
「ジョハリの窓」なんてものがあることからも分かる通り、
人間は、自分自身のことを100%見えているわけではありません。
![](https://assets.st-note.com/img/1654331294195-HmDOTAx6AR.png)
己の弱さ、未熟さを完全に知り、これを越えることができなければ、
真に悟れた!とは言えないのです。
人は鏡。
空海がより高い悟りに至るには、共に高めあえるような、
言わば、共に同じ山を登る「仲間」の存在がどうしても不可欠でした。
しかし、当時の日本はまだ、西暦800年頃。
当然、インターネットもありませんので、
悟りを開きたい人だけでオフ会希望!
なんてことはできません。
ならばどうするか?
あらゆるモノが集まる場所に、身を置けばいいのです。
当時、空海がとった行動。
それは、時の権力者に取り入ることでした。
空海の言葉は、人の心を掴みました。
宗教で人の心を操りたい政府にとって、空海はうってつけの人材でしたし、
また、空海にとっても、仏教に興味がある人間が勝手に集まってくる自分のポストは、とても都合が良かったのでした。
お金や権力では買えないもののために、お金や権力を利用する。
そういった融通が、空海にはありました。
その甲斐あって、
空海はかけがえのない仲間「最澄」と出会います。
邂逅を果たした空海は思う存分、
最澄と共に悟りのレベリングをしまくり、後の仏教界に大きな影響を与えていくのですが・・・
それはまた、別のお話。
それでは最後に、本記事冒頭の内容を振り返ってみましょう。
誰でもない自分自身のオリジナリティを発揮するには、
環境、つまり自分の長所を引き出してくれる、
「仲間」と呼べるような人間関係が必要だということ。
「仲間」とは、オンラインサロンやコミュニティが用意してくれるものではなく、
他ならぬ自分自身が、人間として尊敬できる人を探すことによって見つけられるということ。
尊敬できる人と懇意になるには、
自分自身が、人間として尊敬できるできるような人になること。
もっと言ってしまうと、
自分が得をすることや構ってもらうことを考えず、他人に得をさせ、構われるより構いに行こう、ということ。
与える側になって、仲間を作って、共に歩む。
これはまさに、空海がやってきたことそのままです。
お金と権力を追い求めるでもなく、
かといって、そんなものは卑しい!と忌避するでもなく、
「与える側になるためのツール」として利用した空海。
清濁併せ吞むこの和尚のライフスタイル。
きれいごとだけでは生きられないこの令和にこそ、必要なんじゃないかと私は思っています。
というわけで今回は、
なりたい自分になるためにまず「与える側になる」
というきれいごとを貫くには、
お金や権力というツールに踊らされない知性が必要!
というお話でした。
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