『万引き家族』破綻する2つの世界でどう生きる?~ちょいネタバレあります~
久しぶりに話題作を公開直後に観ました。
『万引き家族』です。
感想をサクッと。
”家族の在り方”どうこうの話は一面的だと思うので触れません。
それよりも「いま直面するグローバルな社会問題をよく表現したなあ」と思う部分を。
この映画は前半と後半で世界観がまったく違います。
そのため意図的にカット割りも変えています。
誤解を恐れずざっくり言うと「複雑」な世界と「単純」な世界。
小難しく言うと「文学」と「政治」の世界です。
映画の前半、サザエさんを見ているようです。
おばあちゃん、お父さん、お母さん、お母さんの妹、息子、娘が一つ屋根の下で暮らす。
みんなで鍋を囲み、みんなで隅田川の花火大会や海水浴を楽しむ。
力道山が映るブラウン管テレビさえあれば、それは古き良き日本です。
情緒あふれるシーンや綺麗なカット割りばかり。
雰囲気が変わってしまうカメラ目線なんてひとつも無い。
まさに理想の家族像。
しかし、彼らは一切血が繋がっていません。
というか、だからこそ家族が成立してる。
それどころか万引きはするわ、誘拐はするわ、死体は埋めるわ・・・。
正しいようにも見えるし、けど明らかに正しくない。
複雑だからこそ成り立つ、上手に説明できない文学的世界観です。
映画の後半、文学的な世界観が破綻し全否定させられます。
検察官?が法律や制度のことを説明し続けます。
つまり、単純な”べき論”です。
「~するべきだったよね?」とか「~するべきじゃないよね?」とか。
そして、怒涛のようにカメラ目線のカットが積まれていく。
もう情緒とか一切無いのです。
つまり物事を2つに分け、正しいとされる片っぽだけが永遠と語られる。
これが民主主義と言われればそれまでなのですが、もう完璧に政治的な世界観なのです。
観客は全員ツッコミます。
「じゃあ、サザエさんのあの感じは!?」
「あれ、理想の家族像だったじゃん!?」
けど単純な政治的世界観では、もうサザエさんも理想の家族像も成立しない。
観客はそれを見て「そんな単純な話じゃないんだよ~」って感じです。
この破綻する2つの世界観を提示して映画は終わります。
そして、自分も”いまここ”に生きていると気付かされるのです。
そういえばこの映画、キャッチコピーが秀逸。
「盗んだのは、絆でした。」
生きていくのに絆は重要。(単純・政治的)
けど、生きるために絆を盗むしかなかった。(複雑・文学的)
この狭間(現代社会)でどう生きるべきか?
いま世界に共通する社会問題を構造的に表現しきったからこそ、パルムドールを受賞したと思います。