人と「会える」ということは。
大学の最寄り駅から歩いて3分くらいのところに「ひまつぶし」という名前のスナックがある。
わたしが所属していた部活の部員が、代々そこでバイトをしているから馴染みのあるお店で、部活の打ち上げで使わせてもらったり、それ以外でも何度か通った。
明るいママさんと、無口だけど素敵なマスターと、常連のおじ(い)ちゃんがちょこんといる小さなスナック。
カラオケが設置されていて、なんとなく、お互い譲り合いながら曲を入れたり、たまにおじちゃんと一緒にドリカムを歌ったりもした。笑
お酒が濃いからすぐに酔っ払って、馬鹿話も恋バナも、いろいろと盛り上がった。
結構、思い入れのあるお店だった。
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部活の友達から久しぶりにラインがあった。
「ひまつぶし、なくなっちゃうんだって。」
ママさんが体調を崩し、入院する関係で店じまいをすることに決めたそうだ。
最後にもう一回行きたいね、という話になり、友達2人とひまつぶしを訪れた。
友達と、実際に会うのが実は1年ぶりだという事実に驚愕して、一通り叫んだ後、お互いの近況を話しはじめた。
それぞれみんな、会えていない間にいろんなことがあった。
お互いが見えていないところで、いろいろあった。
毎日顔を合わせられていた頃は、本当に当たり前に、「前髪切った」、とか「その服新しいね」、とか、変化にすぐ気がつけた。
一緒に学食を食べながら「あ、今日はサバの塩焼きじゃなくて味噌煮の方にするんだ」とか、どうでもいいことにも気がついた。
会えなくなってから、何か勝手に「元気なんだろうな」と思い込んでいた。
でも自分にだって毎日いろいろある。
当然、友達にだって、悩んだり、葛藤したり、そういうの、全部あるはずなのに、想像の中の友達はいつも変わらない。
「久しぶりに会ったから」、というざっくりとした理由の中に、前髪を切ったこと、新しい服を買ったこと、悩んだこと、葛藤したこと、ありとあらゆる変化が、全部ひっくるまってしまっているようで、なんだかな、と思った。
会えないってそういうことなんだな、変化に気づけないことなんだな、と思った。
***
お店にママさんがいない代わりに、ママさん当ての、たくさんのお見舞いがあった。
マスターは千疋屋のフルーツの詰め合わせをおもむろにごそごそ取り出し始めた。どうやらそれを私たちにくれるようだ、と気がついたので、
「それはママさんにあげてください」と言うと
「コロナでね、会うことができないんだよ。だから渡せなくてね。代わりにみんなで食べて」と言って、さっと切って出してくれた。
千疋屋のフルーツだと思って食べたからかもしれないが、ものすごくおいしかった。
本当はママさんが食べるはずだったのにな、とか思って、なんだかな、と思った。
でもやっぱり千疋屋はおいしかった。
おいしくて嫌だった。
会えないってなんか、すごい嫌だなって思った。
***
人と当たり前に会えるってことは、それだけでとてつもなく、価値だなぁ。
世の中いろんなことがリモートになって、スムーズになったり、楽になったり、良いことたくさんあるけれど、毎日当たり前に誰かと会えることって、また違う意味で大切だなぁ。
そして結局、わたしはスナック「ひまつぶし」が好きだったなぁ。