丹生川上神社についての自分用まとめ。
丹生川上神社とは
丹生川上神社は古くから祈雨・止雨として朝廷より奉幣の祈願がなされ、
祈雨には黒馬、止雨には白馬が奉納されていました。
延喜式臨時祭では、「貴船神社(京都府)とともに祈雨に黒毛の馬一疋、止雨に祭料のほか白毛の馬を加える」とあります。
これが絵馬の発祥の由来になったとも言われています。
丹生川上神社の歴史について
丹生川上神社の歴史はとても複雑です。
丹生川上神社という神社は上社、中社、下社の3社があります。
885年に従二位に至って、後に二十二社に列したとあることから、昔から国家・朝廷にとって重大な格式の高い神社として位置付けられていました。
しかし戦国時代以降は衰微し、なんと神社の所在地が分からなくなってしまったのです。
まさに「失われた神社」だったのですが、
1871年、江戸時代からの式内社考証の研究成果を受け、
丹生川沿いの「丹生大明神」という神社が丹生川上神社ではないか、という説が有力になり、官幣大社と認定されます。
しかし、その後に同社(現・下社)の少宮司が太政官符(太政官が管轄下にある官司に下した文書)に記載された丹生川上神社の四至に適合していないことを問題視し、
当時「高龗神社」と呼ばれていた現・上社が四至に適合するとして比定しました。
この説は認められて、1896年には当時丹生川上神社とされていた旧・丹生大明神社を「下社」、高龗神社を「上社」とし、両社を併せて「丹生川上神社」とする決定がされました。
さらにその後、1922年には、東吉野村の「蟻通神社」こそが丹生川上神社だという説が世に出されました。
内務省は調査研究し、考証を重ねた結果、
蟻通神社は「中社」と定められ、官幣大社に列格されました。
この時に3社ともを否定せず、全てを「官幣大社丹生川上神社」としたことで、現在も丹生川上神社は3社あるということなのです。
1952年に3社は宗教法人として別々の神社に分かれ、丹生川上神社下社、丹生川上神社上社、中社は丹生川上神社と称しています。
丹生川上神社の御祭神について
蟻通神社が中社となった際に、各神社の御祭神の変更がありました。
(そんなことしていいんだ…って感じですよね笑)
上社は「罔象女神」から「高龗神」へ、
中社は「雨師明神」から「罔象女神」へ、
下社は「高龗神」から「闇龗神」へと変更されました。
高龗神と闇龗神はよく似ていますが、
「高龗神」は山の峰の龍神であり、山に降る雨を司る
「闇龗神」は谷底に棲まれる龍神であり、谷間に流れる川を司る
とされています。
龗という字は、口3つが器を三つ並べた様子で、龍神に雨乞いの祈りを表しているそうです。
「罔象女神」は、イザナミが死ぬときに生まれた女神で、これもまた龍の姿をした水の神とされています。
また、貴船神社の社記には高龗神と闇龗神について、「呼び名は違っても同じ神なり」と記されています。
このことから、この二柱は同一神、または荒御魂・和御霊のような関係とも考察できます。
さらに高龗神は一説では女神であるとも言われているので、水神で女神の罔象女神とも…?
この三柱が全て同一神だったとすれば、わざわざ3社全ての御祭神を変更したことへの疑問は晴れそうな気がします。
丹生川上神社・上社について
上社は元々は現在地の東にある河岸段丘上にありました。
しかし、大滝ダムの建設によりダム湖となることから平成十年(1998年)に現在地にお引越し(遷座)をしました。
ダム建設による発掘調査で分かったこと
遷座の際に旧地の発掘調査が行われ、
付近からは縄文時代の集落遺跡である「宮ノ平遺跡」が、
旧本殿跡からは平安時代の社殿跡とされる石組が発見されていました。
宮ノ平遺跡からは、環状配石遺構(ストーンサークル)が発掘され、太古の祭祀場であった可能性が高く、
一説には、神武天皇が天香久山の「はに土」を採取して、天神地祇を祀った場所だったのではとも言われています。
真偽はともかく、縄文時代というかなり古くから人々がこの地に住み着き、自然信仰の祭儀を行っていたことが伺えます。
そんな古代のロマンを感じる跡地が湖の底に沈んでしまったと考えると、少し寂しい気持ちになりますね…
ちなみに、上社の旧社殿は明日香村飛鳥に鎮座する「飛鳥坐神社」に移築されました。
いつか訪れたい神社の一つです。
旧社殿は吉野川を背にして西向きに社殿が建てられていたようですが、現在は東向きに建てられ、ダム湖を見下ろすようにして鎮座されています。
丹生川上神社・中社について
中社の主祭神は罔象女神
相殿神に伊邪奈美命、伊邪奈岐命が鎮座されています。
この中社の御祭神の並びは、相殿神にイザナギとイザナミのご両親がおられ、主祭神としてミツハノメという御子が鎮座しているというところがとても面白いポイントです。
御祭神から考察する信仰について
元来より、水を崇拝する信仰は水分(みくまり)信仰と言われていました。
水(ミ)を配る(クマリ)ことで、分水嶺に祭られる配水の神を指すとされています。
それがいつしか訛って変化していき、御子守(みこもり)信仰として、子供の守護神、子授け・安産の神としても信仰されるようになった背景があります。
(水の神に女神が多いことも御子守信仰と変化していったことに関係があるかもしれないと推測できます。)
この中社の御祭神は、そういった水分信仰と御子守信仰がとても密接であることを感じることができる大変興味深い神社なのです。
小牟漏岳とその逸話について
拝殿横にある「丹生の真名井」では、本殿の裏手の小牟漏岳を水源としており、御祭神の力と恩恵を受けた御神水を汲むことができます。
この小牟漏岳にも逸話があり、看板に詳しく書かれていたので載せておきます。
神話に登場する「夢淵」とひんがしの瀧
神社の東側には「夢淵」という3つの川が合流地点があります。
この夢淵とは、神武天皇が東征と大和を平定するときに、お酒の入った瓶を夢淵に沈め、魚が木の葉のごとく流れれば戦に勝てるという天神の教えにより、占いを行った場所である、と言われています。
この占いの結果、鮎がプカプカと浮いたことから勝利を確信し、見事に大和平定を完遂しました。
この言い伝えから「鮎」という漢字は「魚」に「占う」と書くようになったとされています。
(夢淵の写真を撮りたかったのですが、キャンプ川遊びをしてる人が多く断念しました。残念!)
夢淵のすぐ近くには東(ひんがし)の瀧という滝があります。
この滝は、「秋津野の瀧」「龍神の瀧」とも呼ばれ、黒龍と白龍が棲む滝と言われています。
丹生川上神社・下社について
下社といえば本殿へと続く長い階段(きざはし)が印象的です。
この階段は2018〜2019年ごろに再建されたものです。
工事の際には、階段の下を探査機で調査し、何もないことを確認してから、
明治時代に作られた古いひのきの階段を取り外してみたところ、古い石段が現れました。
誰も木の階段の下に石段があることは知らず、探査機で調べた2箇所の地点のみが崩れていたため、取り外すまで石段に気づかなかったそうです。
下社に飾られた島の絵の正体
下社の拝殿上には島の絵が飾られています。
しかし、神社一帯は山に囲まれていて島とは無縁です。
何故、島の絵が飾られているのか。
この島は一体どこの島なのか。
次回はこの絵に隠された真実と貴船神社との深い関わりについて考察していきたいと思います。
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