その着せ替え人形はハイパーリアルの二乗に恋をする〜ジャンボードリヤール、サブカルチャー論のなんちゃって入門〜
久しぶりの投稿です。ただ書きたいから書きたいというノリでやっております。今現在、普段は社員として働いております。社会人生活やっぱり難しいなぁ、と思いながらもギリギリの最中でなんとかハリボテの状態としては成り立たせて頂いてるので、会社とシステムそのものに感謝です。
今はユーチューブで読んだ本について自己満足でただ気持ちよく喋っている動画を上げています。底辺界隈の集めた動画に取り上げてもらうのが昨今の夢でございまし。日本の平均読書数の底上げに貢献したいなと思いながらやっております。
私自身読書をするという習慣を持っておらず、またあまりにも言語能力が低く、学生時代までとても辛い思いをしたと思います。おそらく、読書をする方にとってみれば私は「かわいそうな人」と修飾されているかもしれません。
しかし大学三年生の時に「1000冊読めば1000万円稼げる」というフレーズに惹かれて、読書をレベル0から始めようと思いました。人からの承認を得たい、モテたい、という思いがこのフレーズに費やすことになったわけです。あまりにも僅かではございますが、以前の時よりかは少し言語の運搬能力がついた感じがします。このことに対して読書に対して、唯一無二の感謝です。
そして私が無読書の中で終える人生のセカイではなく、読書するという「こっちのセカイ」に持っていってくれたこの環境に感謝です(マイケルサンデルの著書で「実力も運のうち」というものがあります。自身の実力で成功したのではなくて、親の生涯年収、家庭環境、出自のおかげが95%を占めてるからな?おまえそのことわかってんの?お前の実力は運やからな?という内容です。この運にたどり着いた環境に感謝です)ってゆー読書崇拝的自己紹介でした。
ギャルとハイパーリアルとハイパーリアル
今回はアニメの「その着せ替え人形は恋をする」というアニメを主軸にしたサブカルチャーの評論(笑)です。あらかじめ前もっていいます。本記事はボケです。ネタです。ふざけで書いております。これについては再度言います。
もしこの世にこの記事の読者がいるとすれば、このネタ記事を通してフランスの思想家ジャンボードリヤールの話や東浩紀のサブカルチャー論がなんとなくわかるようになります。この記事の表紙?ヘッダーがなんと「その着せ替え人形は恋をする」の喜多川さん、「明日、私は誰かのカノジョ」のゆあてぁ、そして現代の消費社会、現代アートに強烈なインパクトを与えたジャンボーリヤールがマッシュアップしています。夢の共演です。
今話題の「その着せ替え人形は恋をする」は僕は友人に勧めて見始めました。人形作りの主人公は、一切関わり合うことのなかったギャルの喜多川さんのコスプレ作りに協力していく二人のラブコメディです。アニメーションをNetflixでみましたがとても絵が綺麗です。アニメーション制作の監督のインタビューみたいな記事も読んでみましたが、「原作者やファンの方々をがっかりさせないこと」とおしゃっていました。プロのクリエイターはやっぱすげえなぁと。
〜「超ワカメじゃんウケる」はハイパーリアルを直感的に見抜いている〜
まさかラブコメにそんなハマることはないだろうと、思っていましたが軽く精神世界もっていかれそうで危なかったです。主人公とヒロイン喜多川さんの物語の分岐点となる場所が家庭科の教室なんですよ。二人ともミシンを使いたくて放課後に家庭科の教室に出会う、というところです。恋心に傷心し、身をひそめたいという思いから「海の底で物言わず貝になりたい」と歌ったのはポルノグラフィティのサウダージですが、二人の甘酸っぱい恋、青い春という海の底で物言わずミシンになりたくなったのが私です。
さて、そんな素晴らしい作品をみていく中で私は心萌ゆる感情に、一つの気づきがありました。それが次のシーンです。
主人公とヒロインが海に出かけたときに、彼女が海に入ったときにワカメを
見つけたときです。そのとき彼女がワカメを手にとり、「ね~え!超ワカメなんだけど~。ヤバいウケる~。」といったシーンです。
この時です。僕この時
「あれ?コイツ記号化されたハイパーリアルのこと見抜いてんじゃね?
もしかしてコイツ、知のバケモン?」と思いました。
今回の記事のモチーフはこれです。なので今回はなぜ彼女の「超ワカメなんだけど〜」が「ハイパーリアルのこと見抜いて」いるのかを話します。ハイパーリアルとは何かも説明します。ちなみにこのシーン探したくて画像を探しました。「超ワカメ」で検索すると、高級ワカメがでてきてきました。また検索をかけてみると、僕みたいに「超ワカメ」について関心を持ったツイートなどもありました(一つだけですが)。
この記事を通すと、現代社会とフィクションであるアニメとの関係性がなんとなくわかったような感じなります。またこの言説にすこし厚みを持たせるために「明日、私は誰かのカノジョ」に登場するキャラクター「ゆあてぁ」についても分析したいと思います。
再度いいますが、この記事のノリはボケです。「こいつなにかいてんだ」ぐらいのテンションです。お笑い芸人のコウメ太夫のツイートに毎回哲学的な解釈のリプを送る人的なのです。とか思いながら一応調べてみたんですけど、この人すごいですね笑。この記事のノリはボケですの「ボケ」は私の記事にのみ修飾がかかっています。近いけど近くないたとえ話です。まったく一緒ではありませんので(めっちゃ予防線張る)。
ハイパーリアルとシミュラークル的リアリズムなサブカルチャー
まずこの消費社会がどのようなものであるか、というマクロなところから論じた後に、具体的なサブカルチャー(つまりアニメ・マンガ)について語っていきたいと思います。
ハイパーリアル
ではまずこの消費社会について
ジャン・ボードリヤールっていう思想家がいるんですけど、この人が言うんですね。
「現代社会は記号的消費への至上命令を発している」と。
すみません大体の本が実家にあり、手元にないので正確な引用できてません。
「至上命令」とは、「おまえ絶対これやれよ!!」という一番優先されるべき命令のことです。
「記号的消費」とは、イメージを消費する、と思ってくれたらいいです。
例えば、ハイブランドの服を着るのは寒さから身を守るためではないですね?
そんな実用的な消費はしませんよね?ハイブランドの服を着るのは周りのみんなから「あ、この人お金持ちなんだ」とイメージ見せたいからですよね。
道端にただの赤いランプを光らせたら、人々はそれをみてただの赤色という認識に終わらず「ここでとまらなくてはいけない」という記号の意味を読み取りますよね?
かっこいい車、しかも外車で燃費が悪い車に乗るには、それを乗ることによって社会的地位や広告のブランドイメージを消費するわけですよね。このように私達は記号を消費しているのです。
なので、「現代社会は記号的消費への至上命令を発している」は、
「現代社会は基本的な実用性より、みんなからいいイメージを持たれたいがための消費をもっとも最優先にし続けろ!」というような意味になります。
もう今となっては、なんら新しい発想ではないですよね。「まぁそうですよね」という感じです。直感的にこの話を理解できるのではないでしょうか。この本すごいのは、数十年前に独特の視点の切り口(=記号論とかいろいろ)をもって現代社会を解剖していたことなんですね。数十年後の当たり前の今を、数十年前に分析している。インスタグラムは、記号的消費の至上命令ですよね。「イイね」を貰えるために、インスタ映えするご飯を食べる。食べるのは目的じゃない、写真を撮ってみんなからいいねをもらえるというイメージに金を払っている。
こういう世界観です。この社会は記号だけなんですよー、というんですね。この記号をもとにシミュレーションとシミュラークルという言葉が出てきます。
シミュレーションはコピーという意味です。
シミュラークルはコピーのコピーという意味と思ってくれたらいいです。
シミュラークルはコピーされるオリジナルがないコピーのコピーです。
そしてこのシミュラークルな現実世界をハイパーリアルといいます。
これはアニメ・マンガに例えるのがわかりやすいです。そもそもアニメ、文学は現実世界のコピーです。この現実でなにか訴えたいことがあるから、みんな作品をつくります。現実を上手にコピーするのです。しかし、現代になるとアニメ・マンガがこの現実をコピーしなくなりました。シミュラークル(コピーのコピー)が始まったのです。
シミュラークルとは具体的にどういうことか、と話すのですが、このまま東浩紀さんの「動物化するポストモダン」について話しましょう。
みなさん、萌えキャラの特徴とはなんでしょうか?メガネ?メイド?猫耳?しっぽ?萌えキャラとはこのように「とりあえずこのパーツさえあればキャラができるなぁ」という記号なのです。私達はこの記号をみて、新たに萌えキャラを作るときには記号と言うパーツをまた模倣(コピー)すればいいのです。こうしてみんなコピーのコピーをたくさん作り、またそれを消費するのです。今は異世界転生物語を主題としたものが流行っていますね。異世界転生物語は、そもそも現代社会をモチーフにしていませんよね?ゲームの世界というものをリアルに描くのです。そしてその現実とは関係のない、そのフィクションのコピーとしてまた新たな異世界転生物語が紡ぎ出されていくのです。コピーのコピーがたくさん生まれてきます。シミュラークルがたくさん生まれていきます。
例えばアニメでは二次創作というものがあります。学園モノの話が作品のオリジナルなのに、特定のキャラクターだけをとりだして、SF世界の中で物語をすすめたり創意工夫をしてみなさん制作をします。オリジナル作品の大きな物語というものはあまり重要視せずに、そのキャラという記号だけを取り出す。これをデーターベース型の消費とたしか言って言いました(こんなこと書いていますが、東浩紀さんはシミュラークルとデータベース型消費は違うものだと分けております。ご注意を)。
いま、さっき異世界転生モノは現実世界じゃなくて、ゲームの世界をリアルに描いているといいました。例えば、主人公が死んだらコンテニューを通してもう一度生き返る。とかスキルというシステム、経験値というシステム、というのをアニメの中に取り入れる、という感じです。
東浩紀さんはこの現象にたいして「ゲーム的リアリズム」というふうに言います。リアリズムとは自然をなるべく本当のように映し出す、という手法だと思ってくれたらいいです。例えば、韓国では貧富の差が大きいことが有名な問題ですよね。なので韓国ドラマは、その格差という自然を取り入れて映画をつくります。
ゲーム的リアリズムの誕生とは、なるべくゲームというコピーをリアルに取り入れるようにコピーをするということです。コピーのコピーです。ゲームもフィクションなのでコピーです。なので異世界転生モノはコピーのコピー。つまりはシミュラークルなのです。
最後にハイパーリアルについて話します。
ハイパーリアルとは、このコピーのコピーを現実がコピーしたという意味です。
例えば、コスプレはハイパーリアルであると言えるでしょう。
まずコンテニューができるというゲームという虚構(コピー)をコピーした異世界転生モノがあり、
次にその異世界転生モノのキャラをコスプレする。
ハイパーリアルとはその現実のことを指します。
コピーされたフィクションが現実になるというのがハイパーリヤルなんですね。そこにオリジナルはありません。
ジャン・ボードリヤールは、ディズニーランドについて言及した話はよく取り上げられるもので、
ディズニーランドはみんなコピーされた「夢の国」とおもって現実世界とは切り離されたものだよね、と皆さんおもいがちですが、ジャン・ボードリヤールは違うと言います。そもそもアメリカという国自体全てが「ディズニーランド」となっており、これを隠蔽するためにディズニーランドがあると、いいます。「夢と現実は違うから〜」といっている人、実は現実の方も夢(=コピーされた世界)に生きていることはつゆもしらず、という感じです。現実の世界でも、tiktokやインスタグラムという記号化された快楽消費を追い続けて、キラキラした投稿をみて「羨ましい(=そのイイねがたくさんついている、というイメージ記号を私も実現したい)」というシュミレーションに憧れるハイパーリヤルというオリジナルのない世界に生きているんだ、ってゆー。国というディズニーランドにおいて、みんなコピーのコピーのコピーのコピーにならなければならないという階級闘争(=至上命令)がこの現代社会なのです。以下の動画の方のシミュレーションとシミュラークルの解説がとてもわかりやすいです。
ジャン・ボードリヤール、他にもハイパーリアルな例として公園も取り上げていました。自然を取り戻そう、っていって作った公園も人工的に作られたコピーに過ぎない。そして我々はその緑豊かな人工物をみて「わー自然だぁ」と思う。ハイパーリアルなんですね。
整形でゆあてゃになりたいという人が増えて正直困っています
さて、よりサブカルチャーのハイパーリアルについてすこし厚みを持たせるために、「明日、私は誰かのカノジョ」について取り上げたいと思います。
この作品では、レンタルカノジョ、整形、パパ活、ホス狂いなど割と現代社会を取り上げているので「リアリズム」な作品です。服装も例えばホス狂い編で出てくる「ゆあてぁ」は地雷系ファッションという現実のファッションを取り入れています。
さて、ここで整形外科医の高須院長が悩みを吐露した動画がユーチューブにあげられ、話題になりました。それは「整形でゆあてになりたい人が増えてる」という話です。高須院長が30秒に一回ぐらいのペースで「ゆあてゃ」といっている動画です。
整形とはもともと病気でもない体に手術を行為なので、ハイパーリアル的です(なんか何にでも言えそう)。コピーに憧れ、自分もそれになりたいとう現実化という欲望が働いているわけわけです(なんか批評っぽく書いてますが、僕はぜんぜんそんなこと思ってないです。僕ももし女だったら整形多分してると思います)。
この「ゆあてゃになりたい」という現象はハイパーリヤルの二乗化と呼んでいます。なんかかっこいいでしょ。ただかっこいいから言いたいってゆーだけ。「〇〇の二乗化」はボードリヤールが「芸術の陰謀」という論文において「現代芸術は虚無な作品に対して、『これは虚無である』と言うという虚無の二乗化している。」みたいなこといっていてそこから使いました。
もともとこの現実世界での例えばレンタル彼女というサービスは記号的消費にほかなりません。どういうカノジョの商品として選びますかというもので、ホストも金髪でグッチ着るのが定番という記号の文法があり、レンタル彼女の逆バージョンです。そもそもの現実がハイパーリアルであり、この「明日、私は誰かのカノジョ」ではこのハイパーリアルをなるべくリアルに描写するハイパーリアル的リアリズムなわけです。そして、このハイパーリアル的リアリズムのコピーされた記号的なキャラになりたい!という、言い換えればハイパーリアルのハイパーリアルが起こっているわけです。ハイパーリアルの二乗化状態です。私達はこのハイパーリアルの状態が指数関数的に増加していくことになります(こんな話、もうジャン・ボードリヤールが論じた時代から予測できるので、言うまでもなくもうなっていますね)。
フィクションと現実はどのようにつながっているの?
東浩紀さんが文芸評論において一つの疑問を投げています。セカイ系というアニメが登場したとき(エヴァンゲリオン、涼宮ハルヒの憂鬱、まどかマギカとか)、虚構であるフィクションは現実と切り離されてしまった、といっています。ゲーム的リアリズムみたいなループものを取り入れた作品とかももはや現実世界じゃありえないことをアニメでやっていますよ、と。
「本来、フィクションは現実から何かを抜き出して描いているのですがもはや現実から抜き取らなくなったこの現実世界って一体何・・・?」というのが彼の疑問です。様々なアニメのジャンルや思想がありますので、十人十色の答えがあると思います。僕は、ハイパーリアルの二乗化を通して、切り離された現実とフィクションがともに寄り添い合いにいっているような感じがします。これは適当に書いているので、理由は特にないです笑。多分明日には忘れてそう。
再び着せ恋に戻って
「着せ恋」に戻ってきましょうか。
着せ恋もアニメのテーマの性質上ハイパーリアル的リアリズムです。コスプレというフィクションの現実化というハイパーリアルをモチーフにしています。そして作品中ではかなりコスプレへのこだわりが見られます。実際の企業名をだしたりもしています。フィクションとハイパーリアルがともに絡み合っています。ハイパーリアル的リアリズムの着せ恋感が半端ないですし、着せ恋のハイパーリアル的リアリズム感半端ないです。書いてて思うのですが「ハイパーリアリズム」とかもうまとめて言いたいのですがいかがでしょうか。
さてこういう背景を持った中で、ワカメのシーンに戻ってみましょう。
喜多川さんは現実のワカメを超ワカメと言います。これは彼女がハイパーリアルの累乗化を本質的、直感的に見抜いたフレーズではないのでしょうか。
今目の前にある絶えざるヌメヌメしたワカメ、いまここにあるという生命力を感じる実存的なワカメはもはや記号的なワカメを「超えている」のを直感的に言っている言語観であると私は睨んでおります。作中でもネタのシーンとして、喜多川さんの語彙力が乏しいことを描かれていますが、そのなかでこのハイパーリアルという複雑化された世界を見抜くinsightfulな(洞察的な)力があります。ギャルこそが強烈な実存主義者で有ることを再度確かめられる作品ですね。