波乱万丈だった私の半生
私は、35歳の時に躁鬱病という精神疾患を患い、それが原因で離婚しました。
家内は、私の入院中に、自分と娘の荷物をまとめて、家を出て行ってしまいました。送られてきた離婚届けの用紙に仕方なく判を押さざるを得ませんでした。
娘の養育費に毎月5万円送金する約束だったので、毎月の給料から養育費を支払う分だけ、在宅で副収入が得られる方法はないかと、インターネットで調べてみると、当時、巷を賑わせ始めたアフィリエイトというものに行き当たり、情報商材を購入して、取り組んでみましたが、全く稼げないで終わってしまいました。
家族のために建てたマイホームにて、一人寂しく作業を繰り返し、そのうちに嫌けがさしてしまいました。
また、本業の方でも、仕事は何とか続けて来ましたが、入退院を繰り返していることで、出世街道からは外れてしまった感が強く、面白くなくなりました。
自己評価制度というものも導入されることになり、そうした感が益々強くなりました。そうこうしているうちに、自分が生きていることに価値を見いだせず、死ぬことばかりを考えるようになりました。そして、ある日ついに、自殺未遂を経験しました。
しかし、最後まで死ぬのが怖く、自分でこれから自殺すると警察に通報して、警官隊の到着と同時に飛び降りました。そのため、何とか生きています。
その後、スカイプで知りあった中国人の女性に再婚を勧められ、お見合いらしきものを設定され、国際結婚しました。
日本に呼び寄せて、一緒に生活しましたが、私が仕事をし終えて帰宅するまでの間、彼女は家の中で一人孤独に過ごし、直ぐにホームシックに罹って、実家に国際電話をかけまくり、電話代の請求だけで月に20〜30万円になりました。
これはたまったものではないと、彼女を中国に帰国させ、私が仕事を辞めて、中国に渡ることにしました。が、勤め始めて4ヶ月で、色々なストレスに耐え切れなかったのでしょう。躁状態になり、中国の精神病院に入院しました。ビザを申請する時に、精神疾患の罹患歴を申告していなかったので、仕事をクビになり、彼女とも離婚しました。
単身日本に帰国し、再就職先の、高校生に大学受験用のDVD教材を販売する会社で初の営業の仕事に就いて1ヵ月で、またも躁状態になって、救急車で岡山県精神科医療センターに搬送され、そこから長い入院生活が待っていました。
岡山で教師時代に家を増改築した借金をそのままにして中国に渡ったのが、職もなく、長い入院生活で収入もないため、返済する術もなく、家を売った1,000万円も直ぐに使い果たして、自己破産の手続きをすることになりました。障害年金2級を申請しましたが、それが受給できるまでは、生活保護を受給していました。
退院してからも、再就職先がなかなか見つからず、障害者就労継続支援B型事業所に通所したのち、社会福祉法人の臨時生活支援員として、何とか就職することができましたが、福祉の現場は、正規の職員が少なく、多くが私のような臨時職員で、低所得でした。
その後、中国人の友人の紹介で、6年前の11月23日、25歳年下の中国人女性と二回めの再婚をしましたが、現在の収入だけでは、二人で満足に生活していくだけの経済力がありません。そのため、転職を考えたり、ダブルワークを考えたり、ネットで副業を探したりしていました。
そして、ついに念願叶って児童発達支援と放課後等デイサービスの事業所で正規の職員として働くことになりました。
特に、この5~6年の間は、色々ありましたが、発達に支援を必要とする子どもたちのために、できる限りのことをしていきたいと思います。