20200411
インスタグラムのストーリーで、オーストラリアに住む友達が、庭で子どもたちを遊ばせている様子を見て、良いなと思う。イースターで、庭とか家の敷地内にたくさんエッグを潜ませて、遊ぶ姿。
でも、たった数十秒の動画で見ているに過ぎなくて、その街で暮らすこと、子どもを育てること、母語が日本語の人間が英語でコミュニケーションを取るのが生活の標準に変わること、思いついてこうやって書き記せるなにかだけでは言い尽くせない機微を省略して、「いいね」と言い切ってしまって良いのかと、ときどき考える。
前に、確か雑誌の「VERY」か何かで(2000年ごろグラビアアイドルとしての井川遥を中高の同級生やったマイコからのタレコミで追いかけはじめて、もちろん「月刊 井川遥」も大好きで、そしたらatoの松本与と結婚したと報があって呆けてたら、いつの間にか身体がめちゃくちゃ絞られてて、メインモデルになった2010年ごろになったVERYは、そのぶっ飛んだコピーにも惹かれて一時毎月買っていた)、読者代表で登場した子育て中の母親のひとりが、「いくら家事をがんばっても誰も褒めてくれない。そんななかSNSにお弁当の写真をあげたら、みんながいいねしてくれて、救われた」みたいな、1ページに何人もいる中のちっちゃいコメントに書かれてあって、胸が締めつけられる感じと共に、そうよね、ネット空間の関係性が人を生かす力になることもあるよねと思った、のを思い出した。
工夫は、あくまで選択肢やその知恵があるときにしか、できない。
舞台芸術関係の製作者や演出家など数人でzoomで集まって数時間話す。2年の間、毎月ないし2ヶ月に1回は会ったり、オンラインで話してきた人たちなので、不用意に傷つけられるかもしれないという不安がない。仮にあっても、そう告げられるし、互いの感じ方が意図を説明しあえる、健やかなやりとり。
これまでは公の場という感じ、事務的な言葉で話そうとそれぞれ努めてきたところの多い集まりだったから、たまにはカジュアルに、と先月から2回目のお話し会。
途中で、ミュートと映像をオフにして夜ごはんの支度をして聞くオンリーにしたり、話しながら無印良品のサイトで折りたためるテーブルを探したり。
うちにあまり人を呼んだことはない。去年一度5人くらいが来たことがあって、そのときはヨガマットを敷いて、地べたにコップや器を置いて、お茶とかつまみのナッツ類など出した。
人を呼べる、風通しの良い家への憧れがある。家族じゃないのに、安心して遊びに行ける、他人を呼べる家または部屋の、数人の友達に救われてきたところもあったので、自分もそうできたらなという憧れがある。家族といっしょにいてもあんまり安心できない質だからだと思う。
収納名人になりたい。ときめかないものはほとんどないはずなんだけど。
夜ごはんは、前々から花生醤と豆豉醤とナンプラーに漬けておいた鳥もも肉を焼いて、ピーマン、スナップエンドウと炒めたもの、かぶの浅漬け、昨日と同じ新玉ねぎをレンチンしてチーズとかつお節と、醤油を少しかけたもの。
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