20200425

ずいぶん前に買ったレシピ本や、友達からもらったレシピ本を引っ張り出してきて、気合いを入れて料理をしてみた数日間だった。

インスタストーリーに何人かがアップしていた旬のたけのこを灰汁抜きして作った料理を見ていて、千織さんが『チオベンの弁当本』で紹介していたたけのこのココナッツ煮を以前オカダと作ったのが思い出された。それから、ベジ料理に関心があるというわたしに泰ちゃんがずっと前に勧めてくれたオズボーン未奈子『オズボーン家のベジタブル食堂』にあった、黄パプリカとオリーブの白ワイン蒸しのレシピを、赤パプリカと赤ワインしかなかったので入れ替えてみたり。オズボーンレシプからはカリカリブロッコリーとカシューナッツがかんたんだったのでやってみて、それから、千織さんがインスタにアップしていた牛肉のタリアータというのが気になったのでやってみた。ふだんは肉を家で食べないのに、千織さんが連日作ったタリアータのバリエーションは野菜が豊富で、そそるものがあった。

平山亮さんは、『介護する息子たち』で、ジェニファー・メイソンの議論を引っ張ってきて〈「感覚的活動」の実行〉について、ケア労働、例えば家事のなかでも、日々のごはんをあげるという行為の複雑さをひも解いていた。

〈子どもが年齢的に食べられるもの、子ども自身が好んで食べそうなものと、夫など他の家族の好みを思い浮かべながら、店頭に並ぶ購入可能な食材を確認しつつ、また、この先の自分や家族の予定を考慮し、準備しておいた方がよい食材や、つくることができそうな料理を考え、自宅に既にある食材を思い出しながら、それらすべてを総合して数日先の献立を考え、いま何が必要かを明確化させるという、文字にしてみれば目の回るほど多岐に渡る認知的活動〉

大阪市長の松井一郎氏は、COVID-19の外出制限、他者との距離を取るといった感染抑制の行動変容に関わる、混み合うスーパーの課題について「(女性は)商品を見ながらあれがいいとか時間がかかる。男は言われた物をぱぱっと買って帰れるから(男性が)接触を避けて買い物に行くのがいいと思う」と述べたという。そのあと〈男女は関係ないと記者が指摘すると「それはそうやね。わが家では時間がかかる」と釈明〉と報道では書かれているけれど、家事という労働、「食事を作る」というたいへんさ、複雑さを舐めてるとしか思えない。でも、これが多くの意見で、家事をしている人も認識できていない、だからこそ平山さんの指摘が新鮮に響いたんだろう。

数年前に、この本の書評をきっかけに、平山さんにインタビューをし、続いてメディアの登場を何度か見かけた。自分の書いたものがきっかけかどうかは、そのメディアの人たちを当たらないとわからないのだけど、取り上げた以上わたしもその言説に加担したと言える。
それで、ジェンダーと労働の関係を探る、若手の研究者らが始めた研究会で『介護する息子たち』の読書会があったので参加したら、批判的な検証があった。そのことについてここで書くことが今のわたしには力不足でできないのだけど、平山さんとこの本の登場に喜んでいたわたしは、感情的な自分を否定する必要はないものの「見直す」という意志を忘れないでおきたい、と思った。

のを思い出しながら食べた。

あいだ、昨日は友達とzoom飲みをしながら、近所の和食屋が店頭販売していたいなり寿司2種を食べた。4個で1000円近くした。このような出費は毎日なんてむりで、せいぜい週に1回くらいしかできない気がする。

と思っていたのに、200gくらいで1500円の牛もものステーキ肉を買って、半分をタリアータにした。わたしは、スーパーの買い物で、家計簿をつけるように値段を気にして調整ができない。食べながら、和牛券のことが浮かんでしかたなかった。これから先ずっと和牛券という愚策を忘れてはいけないと思うけど、おいしく食べたいから本当は忘れたい、のにやっぱり忘れてはいけないと戒める感じで。インスタグラムに写真をアップしても、説明をしない限り、そういう逡巡は伝わらない。
これも数年前だけど、マーク・ジェイコブスのワンピースを着てタクシーに乗ってる写真をアップしたのを、当時まだ付き合いの浅かった友達はハイソな人と受け取っていたようで(これはわたしの意訳で友達の意味するところとはちがうかもしれない)、そのワンピは弟が結婚するというのでそのパーティーで着るためにYOOXで買った、何シーズンも前の商品だから相当安くなっていたものに過ぎなかった。

服は、ずっとYOOXを使ってきた。お金がない、けどファストファッションではほとんど得られない、ハイファッションの美しさや楽しさが必要だったから。必要、と書いたけどそれは、自己努力だけでは舵を取れないうまくいかない人生を、ハイなものを纏うことで価値ある何かにどうにかしてみたいというところもあって、つまり虚飾と言えるかもしれない、とずっと自問している。毎瞬間毎日とかではないけれど。
そのYOOXがここ数年、値下げ率がぜんぜん良くなくて、利用頻度がかなり下がった。というより、その虚飾、自尊心を高めるためにとにかく服! 服! 服! 靴! 靴! 靴! と買いあさっていた(あれは買い物依存症だったのかもしれない、わからんけど)のが落ち着いて、少しの良いものを長く着るという、例のミニマリスト的志向と言えるやつかもしれないのだけど、それほど洗練されてもいない我が家のワードローブを披露することはできないので、〈スーパーの買い物で、家計簿をつけるように値段を気にして調整ができない〉と同じと推し量っていただきたいです。
服選びも靴選びも試着が肝心、なのに、そのために店員さんに「あの、」と一言かけることすらハードルが高かった。この人はわたしを排除するかもしれないという不安がいつもあった。個人経営のブティックやハイファッションを扱うデパートのフロアーは、金額面でのハードルの高さゆえ、悩むための相談がしたいけど、声をかけること自体の不安は、なかなか他者には伝わりにくい。だからオンラインショッピングや、ファストファッションのチェーン店の顔のなさは、気楽でもあった。
試着をした様子を見て意見をくれる友達ができたおかげもあって、少しであってもオンシーズンのものを買う楽しさを満喫できるようになってきた。その心のゆとりは、たぶん、ぜいたくなんかじゃなくて、割とちょっとしたお金で解決する聖域だと思ってる。

服選びは毎日やってきたのに今は部屋着中心になってて、料理は毎日やらなくなってたのに今は週に何度かやるようになっている。これは一体。

今日のスーパーは、1-2m幅の通路ですれちがうのは当たり前くらいの人口密度で、わたしは混んでいると感じた。チーズを書い忘れてそのあと寄ったカルディは入場制限していて、警備員さんがすごく近くをウロウロするのが気になった。布マスクをつけていて、プリーツがついていた。うちにはまだ2枚の布マスクは届いてなくて、届かなくていいから、検品と輸送コストを医療従事者用のマスク確保・生産に当ててほしいと、見ながら思った。目の前で並んでいた二人組のうちひとりが店に入っていって、スタッフに「待ってればいいんですか?」と冷たく問い、「すみません」と謝らざるを得ない状況になっていた。その二人は狭い店内にいっしょに入る必要があるのかと疑問だった。スーパーでもカップルや家族は集団で行動していて、わたしはそれが適切なのかどうかわからないという思いと、そう思っているのは嫉妬なのかと、判断がつかなかったけど、割り切れなかった。カルディを出ると、さっき客に謝っていたスタッフさんが警備員さんに「さっきはすみません、持ち場離れて」と言っていた。これまでなら時給せいぜい1000円ちょいの販売の仕事は、それでも十分なのかどうかわからない接客の感情労働の難しさはあったわけだけど、今はさまざまな方面への関係調整が必要な仕事としての入店コントロールがさらに加わったのだと、途方もない気持ちになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?