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大人になってからできる友達

学生時代の友達は一生ものだと言う人がいる。確かにそうだ。頻繁に会えなくても、会えば一瞬で時間は消えるし、いつだって手放しでつきあえる。

でも今になって思えば、学生時代にもっと友達をつくっておけば良かったと思うこともある。友達は決して少なくなかったけれど、留学していたこともあって、友達の大多数が外国籍で、今は世界中あちこちの国に散らばって暮らしていて、連絡を取り合うのはFacebookとInstagram。しょっちゅう互いの投稿を見合っているから寂しさは感じないけれど、リアルに顔を合わせられる友達が、日本にもっといたら良かったなと思う。

しかし最近になって、あるきっかけから、新しく友達ができる機会が増えた。友達が友達を呼び、気づけば私は頻繁に会える仲間に囲まれていたのだった。

大人になったら、友達をつくるのは難しいと思っていた。友達は若いうちに持っておかないと、大人になったらできないからねと、助言してくれる人もいた。しかしできるときは、できるものなんだ。

学生時代の友達と、今のおとな友達の間には、決定的な違いがある。

それは互いにまったく異なっているということ。これまでの人生も、現在の環境も、おそらくこれからの生き方も、互いに共通点が皆無と言っていいほど、みんな違うのだ。

だからこそ、互いのプライベートには踏み込まない。気を遣ってプライベートな話題を避けながら、つきあっているわけではない。自分で自分のプライベートを話したいなと思った時だけ、話せば良くて、こちらも相手が話してきた時だけ、聞けば良い。ドライに聞こえるかもしれないけど、それが自然体な感じがして心地いい。

だから互いのことを知るまでには、時間がかかる。話の小さな断片を少しずつ繫ぎ合わせて、友達と呼ぶその人の背景が出来上がるから。

そして今では、色々な話をしている。結婚していない私が、友達が子供のことを話すのを楽しんで聞ける自分がいるし、彼女にはまったく関係ないであろう私の小説執筆の悩みを、真剣に聞いてくれる友がいる。昇格したと喜ぶ友達の部署の仕事内容が、私にはまったく想像がつかないけれど、なぜだか自分事のように嬉しく思う自分がいる。

多様性って、こういうことなのかなと、肌で体験している感じだ。

不思議なことに、学生の頃の友達づきあいでは、互いを同じだと思っていた。コスタリカ人だったり、韓国人だったり、トルコ人だったり、イタリア人だったり、ヴェトナム系フランス人だったり、華僑のマレーシア人だったりして、互いに途方もなく違うはずなのに、同じ留学生同士だと感じていたからだ。

同じ教室に通い、同じ授業を受け、同じ論文に悩んだ。みんないつも勉強して寝不足で、新しい課題が出されるたびに文句を言った。好きな教授が共通していて、今振り返ればそれは、人気教授は誰にとっても好ましいキャラクターだったからに過ぎないのだけど、当時はそれを互いに気が合っている証拠だと思い込んでいた。

卒業して、母国に帰った人もいれば、アメリカではないまた別の国に移住した人もいて、結婚した人もいれば、目覚めるところあって同性愛になった人もいた。

現在の生活もみんな様々で、今となっては互いに本当に何の共通点もないはずなのに、なぜだか今でも、どこか深いところで同じだという気持ちがある。

今のおとな友達の方が、もしかしたら互いに似ているのかもしれない。相違点を尊重するあまり、共通点に(少なくとも互いに日本人同士なのに)気づけないだけかもしれない。学生時代は、アメリカの圧倒的な人種のるつぼに放り込まれたせいで、本能的に人々の共通点を探し当てていただけかもしれない。

そう考えると、感情とは不思議なものだなと思う。多様性は私の中で逆転している。

大人になってからできた友達だって、一生ものになれるかもしれない。学生時代の友達とは違った形の友情を育んでいけたらと、思っている。

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