倉持麟太郎著「リベラルの敵はリベラルにあり」1章から最終章まで
第1章 要点まとめ
この本の特異点は、人間の弱さをベースに論じているところ。
現代のアイデンティティ形成は「違い(多様性)」がベースになっている。あなたと私では人種が違う、家族構成が違う、性的指向が違う、信念が違うなど、「あなたとは違う…」がアイデンティティ形成の核になっている。
個別のアイデンティティ集団の声をいかに個別に承認するかに着眼しているのが今の政治。人々の多様なアイデンティティと相反する価値観をバランスしながら決着点を見出すのが本来の政治だが、今はそれをすると「敵と妥協した裏切り者」と思われてしまうから、いかに個別の集団の声だけを拾い上げて票に結び付けるかだけを考える傾向にある。
独裁国家ではアイデンティティはおもにひとつに画一化されている。それは不幸なことに思えるが、実際には、北朝鮮から韓国に脱北した人が韓国の自由さに馴染めなくて苦しんだりしている。抑圧された国家に暮らすのは不幸ではあるのだが、いざ急に「これからは自由に好きなように生きてください」と言われても、戸惑って悩んでしまう。つまり、人間は自由に物事を選べるほどそんなに強くはない。
また逆に、自由な国に生きているほうが、自分の承認欲求を満たせないと感じることが多い。そんな欲求不満を満たしてくれるものとして、「お手軽な政治」や「ナショナリズム」あるいは「ポピュリズム」が生まれる。
昨今の右翼的なナショナリズムは、自分の孤独や承認欲求を満たす道具としてセラピー的な効果もある。人種のるつぼアメリカで、労働者階級の白人たちが自分が損をしていると感じ、その心を癒すために排外主義的な政治活動をするが、それは一種セラピー的な効果もある(悪い意味で)
第2章 要点まとめ
「共通の体験」をベースにした人同士の連帯は可能か?
「共通の体験」とは? 同じ女性であるとか、同じ母親であるとか、同じ働く母親であるとか、同じ非正規雇用で働く母親であるとか、共通点を互いに見出して人々が緩く連帯すること。
しかしこの「体験」ベースの連帯は今の世界では失敗している。同じ女性でも子供がいないとか、母親ではないとか、正規雇用であるとかで、細かい部分の違いに目を向け過ぎるようになり、そこから分断が始まっていく。私には子供がいないから分からない、あなたは専業主婦だから働く女性のことは分からないなど、むしろ分断が広がった。
その分断からポリティカル・コレクトネスの社会へと繋がった。特定の表現や発言は、特定の集団への差別や偏見を助長しているとして、許さない社会になった。障碍者、LGBTなどへの配慮から昔の文学は言葉遣いが書き替えられたり、昔の映画も市場から撤廃されるなど。とても窮屈な社会が生まれた。
特定の集団への極端な配慮が常識となったおかげで、ますます分断が深まった。例えば、LGBT、障碍者、シングルマザーの家庭などは「弱者」なのだろうか? 政治は個々の「弱者」の立場ばかりを代表しようとするあまり、それぞれの「弱者」間の利害調整を怠り、また「強者」も置き去りにしてきた。これでは真の社会の問題解決にはならない。
連帯して、ナショナル・アイデンティティを形成することが、これからの時代には再び必要だ
社会が分断すると、どんなデメリットがあるのか?
① シリアやリビアや香港のように内戦が起きるかも。国が内戦状態になり、安全に暮らせなくなる。
② 政治が特定の集団の利益だけを追求するものになっていく。お友達優遇政治になる。
③ 経済をルールに則って公正に回せなくなるかも。1パーセントの富裕層だけが良い暮らしをして、99%の人は貧しいなど。
④ 社会への「信頼」がなくなる。違うアイデンティティや異なる「弱者」集団同士が対話したり協力しあうことで、社会全体への信頼が生まれる。
⑤ 経済格差を是正するセーフティネットが維持できなくなる。分断された社会では、互いのことを「敵」とみなすから、例えば生活保護受給者などのことを、それが必要でない人は、国のおカネを浪費する奴らだと悪感情を抱いてしまうようになる。
⑥ 民主主義のために分断の是正が不可欠。分断していては、党派や利害関係を越えた国づくりが難しくなる
グローバル経済は人々の分断を加速させた。ヒトやモノ、カネが国境を簡単に越えられる時代になったことで、私たちは自由になるどころか、強欲資本主義に晒されることでかえって貧富の差が広がり、分断が深まった。
リベラルな政治は個々の集団のアイデンティティを考え過ぎるあまり、包括的な視野を失い、分断を深めた。リベラルな理想を追求していくと、それが非現実的であることに有権者たちが気づいて、がっかりしていった。政治離れも起きた。
第3章 要点まとめ
ネットやAIと政治の関係
私たちは無料のネット配信サービスやAmazonなどの通販を通して、自分のプライバシーを明け渡している。
アルゴリズムによって、例えばAmazonでの買い物履歴や、グーグルでのネット検索履歴などから、あなたの「傾向」が分析されていき、あなたの性別、年齢、性格、人種、国籍、はたまた政治志向までが分析されていく。ネットに触れれば触れるほど、サイバー空間上にデータとしての「あなた」が形成されていき、それを「デジタル・ツイン」と呼ぶ。(データ上でのもうひとりのあなた、あなたの双子という意味だ)
ネットはあなた自身よりも、あなたのことをよく知っている。
ネットをやっていると、アルゴリズムやAIの働きによって分析された「自分好み」の情報が向こうからどんどんこちらに流れてくる。そこから生まれたネット上の友達も(Twitterのフォロワーなどの友達)も必然的に自分と同じような価値観や性格や政治的考えを持つ者同士が集まってくるようになる。自分と似たような人とネット上で交流したり、自分と似たようなことを言ってくれる記事を読むのは心地よい。そんな心地よい仲間と心地よい情報の中に住むことを「フィルター・バブル(filter bubble)」と呼ぶ。そんな「フィルター・バブル」の中で自分が好む情報を眺めながら、似た者同士で意見を交換しあい共鳴することを「エコ・チェンバー(echo chamber)
そんなフィルターバブルの中に暮らしていると、知らぬ間に自分がある特定の傾向の価値観に流されて過激化してしまうことがある。それを「サイバー・カスケード」と呼ぶ。(カスケードは「滝」の意味で、滝のように突発的に考えが過激化するというたとえから)
自由で多様性のあるネット社会であるはずが、実はアルゴリズムが分析した「あなた好み」の情報ばかりが提供され、狭い情報ばかりが自分の周りに集まっている。情報は本当にあなたが自分の意思で選び取ったものなのか?
GAFAーGoogle、apple、Facebook、amazonの頭文字を取ってガーファと呼ばれる。ネットをやらずに生きることができない今の時代では、GAFAはひとつの国家よりもある意味で力があり、国境を越えて世界を席巻している企業だ。法的に規制しようにも、各国の法の問題や、表現と言論の自由の問題もありなかなか難しい。
「バーチャル・スラム」の出現
AIが分析するデータに頼りすぎると、結果として差別を生む。
例えば、アメリカの刑事司法においては、犯罪が起きやすい地域として黒人や低所得者層の居住地域が特定される傾向があったり、再犯を起こしやすい人として黒人やヒスパニックが特定されやすい傾向が生じている。こうしたAI予測の偏りは、特定の地域や人種に対する社会的差別を強めていくことにも直結する(136ページ)
犯罪や破産など、一度でも人生で失敗したデータがサイバー上に残されると永遠に「ダメ」のレッテルが貼られる。現実の人生でどんなに挽回しようと頑張っても、データ上で形成された差別があると難しい。2030年までにG20の20か国で最大5・4億人の「バーチャル・スラム」が生まれるだろうと言われている。
AIの分析で政治志向が分かる時代
2016年のアメリカ大統領選の時、Facebookのデータからどんな人がトランプに投票しそうか分析された。人種、性別、年齢、買い物の傾向、投稿の内容などから容易にその人の像が掴め、政治利用された。カワカミ・ヨウコ著「おもてなし2051」の小説でいえば、まさに「BB スクリーン」が現実になっている世界である。
2019年には、リクナビの就職サイトから個人データが漏れたニュースが話題になった。リクナビに登録した就活生たちの中で、どんな人が内定を蹴る傾向にあるかが分析された。(AI分析によれば、この学生はどうせ内定を蹴るだろうから採用しないと、面接前に決めてしまうような時代がもうすぐ来るかも)
2018年のGoogleのデータによれば、世界中のIT系の従業員のうち69%が男性で、アメリカの従業員のうち黒人は2・5%、ヒスパニックとラテン系は3・6%だという(167ページ)
AIのデータを扱う人間の方に多様性がないと、バーチャル・スラムが起こりやすい。特定の人間からの特定の人間への偏見が、そのままデータに反映されたりするから。
また、ネットが使えない高齢者や、貧しくてスマホが持てない貧困層などは、ネット上ではこの世界に存在しない人になるか、あるいは二級市民とされてしまう。
結論としては、ネットによって自ら過激に政治化してしまうこともあれば、AIなどのビッグデータによって自分が知らないうちに政治利用されていたり、その両方が常に起きている。でもネットとうまく付き合えるかは自分次第。コロナ禍も「インフォデミック」のようにネットのフェイクニュースで惑わされたり差別を生んだりもしたが、オンライン交流などで新しい良い人間関係を作れた側面もある。
第4章 要点まとめ
右派と左派に極端に二極化していく政治
なぜそうなるのか? 理由その1、小さなネットメディアの数がとても増えたから。ほんの数種のメディアを国民みんなが見ていた時代とは違い、今は数多くの小さな個人メディアが乱立し、それぞれが生き残りをかけて「尖った」主張をしようとしているから。理由その2、そんな「尖った」小規模メディアが収益を出せるビジネスモデルが確実に出来上がっているから。(古谷経衡さんの小説「愛国商売」を読むとその世界がよく分かる)
興味深い調査結果
毎日SNSに触れている人の方が、そうでない人よりも思想が過激化している。新聞やテレビが中心の人の方が、穏健な考え方をしている。
意外にも、若者層ではなく中高年層の思想がSNSの影響で過激化している。生まれた時からネットをやっている若者層の方がネットの正しいやり方を知っているから。過激な投稿を俯瞰して眺められる、ネットリテラシーを中高年層よりも持っているから、過激化しにくい。
ネットを毎日見ているから思想が偏るのではなく、もともと偏った思想を持っている人がネットに触れることによって過激化する。そしてSNSに投稿される過激な書き込みは、じつはほんの少数の人だけが書き込んでいる。全投稿者の約20%。ほんの一部の人が書き込んだ過激な投稿が、ネット上に何度も拡散され続けると、まるで多くの人たちがそのように考えているような印象が出来上がる。
新聞の購読者の方がじつは、多様な意見に触れていない。自分の嫌いな考えを載せる新聞をわざわざ毎月おカネを払って購読しようとする人はあまりいないから。朝日新聞だけを取って読んでいる人は、そこに載る傾向の記事が得る情報のメインになる。一方で、ネットは反対意見なども目に入ってくる。しかしネットだと過激な意見ばかりが目立つのは、穏健な考えを持つ人たちは、投稿することを控えているから。政治論争の喧嘩に巻き込まれたくないから、眺めるだけで書き込まない。
ネット上での一部の過激なマイノリティを味方につけることで、選挙に勝とうとする政党と結びつくケースが増えた。(トランプ大統領の誕生などがその例)
第5章 要点まとめ
政治的な考え方の違いは、肌の色の違いよりも重視される時代になっている?
「自分の子供が自分の支持政党以外の人と結婚するのは反対ですか?」という問いに対して、1960年のアメリカでは共和党員、民主党員ともに5%程度であったのに対し、2010年では共和党員で49%、民主党員で33%と、それぞれ8倍強に増えている(211ページ)
日本も対岸の火事ではない。安倍政権が苛烈な批判を受けながらも、支持率40%を維持していたのは、その支持者が反対する人たちの言葉をいっさい聞かないと同時に、支持政権への批判精神もなくしたから。分断の溝が深くなると、互いの批判の声がもはや耳に入らない。(トランプがどんなに批判されようとも、彼の支持者の耳には入らないのと似ている)
アメリカ、ペンシルバニア大学がラジオ放送を使った実験をしてみた。朝の通勤バスの中で、政権批判的な内容と政権擁護的な内容のラジオ放送をバスの中で毎日流し、聴く前と聴いた後でどのようにリスナーの考えが変わったか実験をした。
その結果、政権批判あるいは政権擁護の内容ばかりのラジオを流した時には、リスナーの意見に変化はなかったが、批判と擁護両方の見解の放送を流した時には、リスナーの意見は穏健化したという。
つまり、反対意見と賛成意見の両方に同時に触れることが大切。それが相手のことを理解した歩み寄りに繋がる。
歩み寄りの姿勢を放棄したリベラルたち
「国民」とは、政治的な思考と選択を繰り返しながらより良い答えへと近づこうとする主人公なのか? それとも「国民」は愚かな選択をする者たちだから、大切な決め事は政治家や専門家のいわゆる「プロ」に任せて、選挙だけに参加させればいいのか?
今の日本のリベラルたちは、わかる人にだけ分かればいい、というエリート主義、愚民思想を持った人が目立つ。殊に、憲法問題にそれが如実に顕れている。一部の市民団体に取り入るために、憲法改正あるいは護憲のための忍耐強い対話や熟議をほとんど放棄した状態になっている。
新型コロナと緊急事態宣言が浮き彫りにした法意識の希薄さ
2019年7月、山本太郎氏は選挙演説中に「立憲主義どころじゃない!」と発言。「立憲主義に基づいた政治をとの主張は大切だが、それどころじゃない。厳しい生活を少しでも楽にする政策は何なのか、具体的に話さなければいけない」と発言した。(私、カワカミ・ヨウコも昨年7月のれいわ新選組の選挙演説で山本氏が、そのような発言をされるのを何度も耳にした。具体的には「憲法改正?は?それ今やることですか?明日の生活どうしよう、今月どうやって生き延びよう、そんな人たちばかりですよ。安倍さん、あんたそれ知ってますか?」など)
今のリベラルには法意識が希薄。コロナの自粛要請も何の法的根拠がないのに、多くの人たちが素直に従った。本来なら個人の自由を尊重するはずの彼らが、コロナを機に「法」や「制度」に昇華させる考えを思いつかない。東京都知事の小池さんなどが法的根拠なきstay homeを呼びかけても、むしろ頑張っていると評価した。それは法を無視した「人の支配」を歓迎しているのと同じである。このままいけば、「人の支配」を法が追認するような日本になってしまうだろう。
第6章 要点まとめ
立憲民主主義2・0あるいはカウンターデモクラシーを今から始めよう
アラブの春、Occupy the Wall Street, イエローベスト運動、SEALDsなどは画期的なカウンターデモクラシーではあったけれど、「同窓会」で終わってしまった側面が強い。その先へ行くためには、デモや投票などだけでは不充分。日本ならもっと永田町のルールに則って考えるばかりではなく、その外側に飛び出していくような発想が必要。
数年ごとに行われる選挙での投票行動を「点」だとすれば、カウンターデモクラシーとは、日常的に政治コミットする「線」である。「線」をつくる方法には何があるだろう?
たとえば、法律を自分たちで作って、それを政府に提言してみたらどうだろう?
倉持氏が取り組む「皇室典範改正法」もそうだが、「ゲンロン憲法」なども記憶に新しい。自分たちで頭を捻って憲法やその他の法改正案などを作り、それを政府に提案してみる。具体性があり、対案を出すことにもなるし、何より、一緒に頭を捻ることを通じて「分断」の溝を埋めていかれる。同じ「政策」を一緒につくる仲間は、その政策に共鳴して集まってくるから、支持している政党が異なっていても協力しあえる。
また、その「政策」を相談しあうことを通じて、日本だけでなく海外で似たような取り組みをしている人たちとも仲間になれる。ズームやオンラインの様々な媒体を駆使して、国際的に繋がっていくこともできる。
これからは「政党」ベースに政治を考えるのではなく、「政策」ベースに物事を見ていこう。そうすれば政治の分断、そしてやがては人々の分断も超えられるかもしれない!